みかん台南へ行く
2020年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
といっておきながら、3年近くブログを放置しておりました。
その間、年が明けたどころか元号が変わりました。
ここで真面目な人なら「令和の目標はブログをまめに書くことです」とか、「今年の目標はもっとブログを更新することです」とこの場で誓うのでしょう。
でもいいんですよ、私のブログはこんなペースで。
私が許します、私のブログですもの。
そんなスタンスのわたくし、昨年末の12月20~22日の間、友人様2人と一緒に台南へ行って参りました。
同じ国なのに台北とはまた雰囲気が違う、それはもうもう楽しいばかりが散りばめられた、笑いの絶えない旅でした。
さて、そんな台南。
に行くにあたって、「台南ならここに行きたいです!!!」と旅程組む段階でリクエストさせて頂いていた場所があります。
その名も台南神社。
日本統治時代の台南にあった神社です。
ええそうです、「あった」神社です、現存しておりません。
そもそも、何故そんな現存もしてない海外の神社に私が行きたかったのか。
実は、台南神社の御祭神は北白川宮能久親王なんです。
明治28年、北白川宮能久親王が彼の地で亡くなられ、北白川宮殿下御遺跡所となったのが台南神社の前身です。
奥羽列藩同盟が提出した、松平容保様の伏罪と寛典を望む嘆願書を却下した総督府に以下のように述べられたお言葉は本当に痺れますよね・・・!
薩摩は先帝の遺訓に背き、幼帝を欺瞞し、摂関幕府を廃し、表に王政復古をとなえながら陰で私欲逆威を逞しうしている。しかも百方工作をし、幕府及び忠良十余藩に冤罪を負わせ、軍を起こした。ために世情騒然、道義は墜ち、大逆無道、千古これに比すものはない。よって匡正の任を同盟諸藩に託す。宜しく大義を明らかにし、兇逆の主魁を殄し、幼帝の憂悩を解き、下は百姓の塗炭の苦しみを救うべし。
むつかしい言葉が並んでますが、超意訳すると「月にかわっておしおきよ!」って仰ってるんです。
最も、大義名分のための盟主であって、実際に戦うのは奥州諸藩ではありますが。
戊辰戦争後、リアル舞姫前日譚でしょうか?なことをやったりと、何かと波乱万丈な人生を送られた北白川宮能久親王ですが、そんな御仁の人生の幕が下りた場所。
やっぱり幕末好きなら、スルー出来ない!
(行程に組み込むの快諾していただき、かつお付き合いくださった同行の友人様には感謝しかありません)
・・・というわけで、出発前から古地図と現在の地図を睨めっこし、このあたりだろうとあたりをつけ、向かった最終日。
ざっくりとしたエリアだけで言いますと、中西区にある孔子廟のすぐお隣、忠義國小学校のところとその道路一本挟んで向かいが該当区域です。
忠義國小学校の図書館が、台南神社時代の社務所(兼休憩場所)だったということですが、流石に小学校の建物の配置までは調べられません。
つまり、小学校の中に入るしかない。
いや、普通に正面から入りましたけどね。
当然ながら門のところにいた警備員さんに呼び止められ、通行人のオジサマを交えて「台南神社を探してるんです」というこちらの意思が伝わり、害意がないと判断されたのか入れて頂けました。
オジサマに「行きたかったのここでしょ?」と孔子廟に案内されて、微妙に伝わってなかったなぁ・・・と思いつつ、孔子廟の脇から小学校に入れちゃいました。
途中渡った石橋、欄干に成功橋と書いておりまして、日本統治時代の現存だったらしいです。
さて、何はともあれ小学校に入ったものの、当然ながら学校なので建物の配置図とかあるわけもなく。
まず台南神社跡探しの何がハードルが高いって、
・現地にそもそも存在知ってる人がほぼ皆無
・現地に行ってる人もほとんどいないので、ネットにも書籍にもあまり情報があがっていない
・現存していない
でしょうか。
日本ならそれでも何とかなる・なんとか出来る部分がありますが、如何せん異国。
こういう時、語学が出来たらどれだけ心強かろうとしみじみ思いました。
しかし嘆いていても仕方がない・・・と思い小学校内できょろきょろしていたその時。
私の嗅覚が幕末の匂いをキャッチしました。
数少ない資料の書籍に載っていた建物と、同じ建物らしきものを発見!
台南神社の社務所(事務所)だったもの。
看板にはたいへんありがたいことに日本語の説明も。
遂にこぎ着けた!私は今、台南神社のエリアにいるんだ!と感無量で大はしゃぎしておりました。
もう少し散策したかったですが、付き合わせてる手前もあったのと、最終日でしたので時間の制約があり、ここのみで撤収。
後々・・・今日このブログを書くにあたって、頭の中の考えやあれこれを整理したのですが、振り返ってみると、台南神社の本殿は林百貨店の裏手あたりにあって、私が行ったのは本当に隅っこだったんだろうな、と。
さっき上で成功橋について触れましたが、書籍とかに載ってる古写真の成功橋は「台南神社外苑」という説明が添えられてるんです(成功橋の場所は■)。
その奥にずっと真っすぐ、参道と思しきものが伸びてます。
で、図書館は社務所(場所は■)だったということは、日本の神社にあるルート的に考えて、紫の丸のあたりが台南神社の本殿だったんじゃないかなぁ、と。
外苑→社務所を通り過ぎて最奥に本殿、がお決まりパターンですので。
まま、それで、本殿があったところが北白川宮能久親王の亡くなった場所では?なんていうのも少し考えてしまったり。
日本の史跡のように、誰それ終焉の地なんて石碑は建ってませんので憶測ではありますが、本殿の位置を定めるときに一番それがしっくりこないかなと。
行った満足感よりも、行った後に振り返った時の疑問の方が大きいですが、現地に行かねば生まれなかった疑問ですので、個人的には良しとします。
今度台南に行くときは、自説・台南神社本殿推測地を歩いてみようと思います。
放置してたブログを急に開けて、台南神社のことを真っ先に書こうと思ったのかについてですが、文中に書きましたように行ってる人がほとんどいないからです。
それを、自慢したいのではなく、今後誰かが行くときに、行こうと思ったときに、少しでもこの記事でお役に立てればなと。
そんなことを思った次第でございます、はい。
本殿の場所の下りについては、自説と妄想練りこんでますので取り扱い要注意です(笑)。
かしこ。
みかん京都を歩く 3
そこそこ間が空いてしまいました。
ぼんやりしている間に梅が綻び、桜が咲いて、そして散りました(苦笑)。
はんなブログ運営サイドはまめなのか、ひと月ブログの更新がないと「そろそろ書かない?」とやんわり催促してくれることを初めて知りました。
面倒くさい、とひょっこり芽を出しそうな感情をえいやと摘み取って、引き続き京都あるきの記事をば。
何処まで書いたっけな、って思ってる時点でもう色々と駄目ですね。
さて。
お昼下がりの後半戦。
バスを乗り継いでやってきたのは西新屋敷、通称「島原」。
現在花街としての面影を残すのは、「大門」と、そして区画内で唯一お茶屋営業を続けている「輪違屋」、かつて揚屋だった「角屋」(現在は角屋もてなしの文化美術館として営業)の三つだけです。
後は住宅街ですが、所々に古い日本家屋がありますので(ただし築年数は不明)、三か所以外に全く雰囲気がないと言い切るのも・・・いや、私も最初に大門潜った時は、飛び込んできた住宅街に何とも言えぬ気持になりはしましたが・・・。
ちなみに昭和52年までは西門も残ってたようですが、トラックが突っ込んで壊れたようです。何てことだ・・・。
当時の区画としては、東大門から西は千本通りまでの東西194.9m、北は中央市場青果市場の南側道路から、南は正面通り両一筋目の道路までの南北242.1m、面積47200㎡。
現在の京都の地図で切り抜くと、このエリアですな。
揚屋やお茶屋、島原と吉原の違いなども折角なので書きたいのですが、そんなことしてたらいつまでも記事が終わりませんので、それはいずれ別稿にて。
今日は角屋へお邪魔します。
こうやって上手に風景切り取ると、花街時代の面影がしのばれますね。
島原に来る度にこの碑をみて、いや久坂さんだけが密議で使ってたわけじゃないでしょ、と心の中でこっそり突っ込んでいました。
しかし、角屋で展示されていた資料のラインナップを見て、わざわざこんな石碑が建てられた理由が分かりました。
ええ、めっちゃ久坂さんの書状もろもろの資料だらけでした。
幕末関係だと、ほとんど久坂さん関連のものだったように記憶しています。
彼については勉強不足な部分が多く、どれだけの史料が現存しているのか恥ずかしながら存じ上げませんが、大半はあそこにあるんじゃないかしら?(笑)
いつもは中戸口に掛けられている角屋の蔓三蔦紋、今日は特別公開期間のためか、表玄関に掛かってました。
潜って石畳を右に曲がると玄関(客人用)、正面に中戸口。
見学ルートは中戸口からです、おじゃまします。
写真左上は、表玄関潜ってすぐに所にある新選組の刀傷です。
まじまじと見てましたが・・・刀の入射角(と言ったらいいのかしら?)が、これ相当腰入ってないとつかない傷じゃないかしら、と素人目には見えました。
ほろ酔い気分で適当に刃物振り回して出来た傷という訳ではないように思えましたが、はてさて。
邪推ついでに、「刀傷」と案内されていたのは此方の一ヶ所だけでしたが、他にもよく見たらこれは刀傷では?という箇所が数か所ありまして。
やー、まさか同一組織による犯行じゃないよね~あはは~、なとどほろ苦く笑っておりました。
角屋もさすがに建物が古いので、昔のままの柱の数だけでは建物が支えきれなくなってきてしまってるらしく、平成になって新しい柱を何本か足したようです。
(右下の写真の、手前の太いのが従来からの柱、奥の細いのが後から足された柱)
写真左上、帳簿場が玄関口すぐにあるのは、監視の役を担ってるからだそうで。
写真右上、箪笥階段。
二階には青貝の間や扇の間がありますが、今回の公開は一階部分のみ。
写真右下、玄関口でお客様から預かった刀は、一旦刀掛けへ、その後写真左下の刀箪笥へ。
幕末のあの人やこの人の御腰のものも、ここに納まってたのでしょうね。
勿論、新選組の皆様も。
そんな新選組関係の資料が一点、展示されてました。
写真禁止でしたので、全文メモしました(転写ミスあったらすみません)。
今般諸払い皆済に相成り候上は、以来、当局と貸し売り等、決して相成らず候。万一強いて申し掛け候ものこれあるにおいては、早々届け出で申すべきもの也。
寅 九月 新選組 調役 印
寅というのは慶応二年。
調役というのは諸士調役兼監察という呼称の方がなじみがありますかな。
この時の諸士調役兼監察って誰が該当しますかねぇ?
篠原さん、吉村さん、島田さん、浅野さん、山崎さん・・・まだいますよね、うーむむ。
それはさておき、今までツケで飲めてたのがツケ禁止になったので、それで怒った隊士が刀振り回したんじゃないのか、というのがガイドの人の話でした。
しかし、先程も書きましたがあの刀傷の入射角は素人目に見るに・・・まあいっか、と視線を次に移すと、何かありましたよ。
「西郷隆盛が行水に使用されたるもの」。
思わず説明書きを二度見しましたが、決して読み間違えではなかったようです。
維新の立役者レベルのお人になると、こんなものまでお宝もの扱いされるのね~、何て思ってましたが、説明書きを読むと凄い盥だったことが判明。
以下説明書きを転写。
昭和20年戦況の悪化に伴い、京都市内も空襲による延焼を防止するため主要な道路や鉄道から50メートル以内の建造物が取り壊しの対象になった。角屋も西側に山陰線が隣接しているため、取り壊しの運命にあったが、京都市の担当者の方々に角屋の建物を視察していただき、明治維新の元勲らも使われた遺標であるとのご理解を頂き、取り壊しはしばらく延期となった。そしてまもなく終戦を迎え、角屋は解体を免れた。角屋の危機を救ったのはまさしく西郷南洲翁のこの盥といっても過言ではありません。
つまり角屋を救った盥というわけですね。
盥が角屋を救ったのですね。
そうか、角屋は盥に救われていたのか・・・などと謎の感慨深さに包まれながら、廊下を進んで奥の松の間へ。
こちらが松の間命名の元となった臥龍松。
芹沢さんが切り結んだと言われてる松は先代で、こちらは二代目のようです。
新撰組組長・芹沢鴨の最後の宴が催されたのがこの松の間、四十三畳もあるそうです。(大正年間に焼失し、現在の広間は再建された物です)
芹沢さんも、こんな感じの目線で最後の晩餐となったあの日の宴を過ごしていたのでしょうか。
お帰りはこちらの玄関から・・・と言いたいところですが、お帰りはまだ中戸口からです。
おじゃましました。
刀傷はつけないで、お利口さんに帰ります~。
みかん京都を歩く 2
続きまして、黒谷さんこと金戒光明寺へ。
少し前まで京都市内に住んでたので、移動は自転車でスイスイだったのですが、引っ越した今となっては市バスを活用するしかなく。
観光客や修学旅行生と車中芋洗いになりながらの移動になりました(泣)。
京都守護職の任に就いた会津藩が、本陣を置いたのがこの金戒光明寺。
最初京都守護職を拝命したとき、会津は二条城に本陣を置いてそこに入ろうとしたのですが、それだと二条城在番と同じことになるからと、当分の間は所司代千本屋敷を宛がわれていました。
しかし所司代屋敷は100人の足軽とその家族のために営まれたものなので、会津の隊列1000人を収容出来るわけもなく。
そこで幕府が、人が入らないなら御所近くに土地を買えば良いと、急遽都に会津藩邸を建てることになったのです。
けれども容保様らの入京まで時間がなく、そういうわけでそれが建つまでは金戒光明寺が本陣となったのです。
(以上は大河逍遥のこちらの記事より引用)
ちなみに、今回初めて知ったことなのですが、金戒光明寺には当初芸州浅野家が入る予定だったそうです。
芸州浅野家の初代藩主浅野長晟の正室・振姫(德川家康三女)の菩提寺がこちらという御縁から付き合いがあり、浅野家からは寺領百石も寄進され、安永年間の火事の時は多くの寄進をしたそうで。
要は江戸時代まるっと、なが~いお付き合いがあったわけですな。
なのでそこに会津が入ると聞いて強く反発したようですが、幕府の裁定によって会津が入ることに。
これぞ御上のひと声・・・浅野家は面白くなかったでしょうが。
そんなやりとりが、展示されていた「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」から学べました。
少し順番が前後しましたが、まずは本堂へ。
この寺に「光明寺」と名前がついた由来や、その後「金戒光明寺」になったこと、御本尊の説明などをふむふむと聞いて、奥の大方丈へ。
本殿から大方丈へ入って、一番手前の部屋が謁見の間。
新選組が容保様と謁見した場所です。
残念ながら当時の方丈は昭和初期に消失しており、現在のものは同じ間取りで再建されたものですが、この距離感で容保様と謁見されてたのかなぁ、なんてつい想像してしまいます。
筆頭局長も来てますよね、絶対。
謁見の間の隣が松の間、そして角が虎の間です。
虎の間は襖の開閉によって見え方が変わる面白いお部屋でして、客人がここで待たされたとガイドさんが仰ってたので、つまりあの人やこの人も虎と睨めっこしてたのかなぁ、とまた想像してしまいます。
松の間は史料の展示がされてまして、パンフレットにも掲載されている容保様の具足「残英(散り残った、しなびた花のこと)」や長刀の刀(銘越前住武蔵守藤原兼中)、「文久三年御上洛御用掛冊子江戸日本橋南壱町目須原屋兵衛殿」、14代将軍の情ら鵜に際しての幕府職制一覧、 山本八重子「明日乃夜は~」と「いくとせか~」の直筆和歌、「黒阿弥陀」、容保様和歌、「志無虚邪行必正直游 居有常必就有徳 源容保 」、前述しました「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」など。
展示されているものの密度が、私的に大変危険でした、松の間。
這いつくばるようにして一生懸命メモの筆を走らせますが、寒さで手が悴んでまともな字が書けないのが悔やまれました。
いま読み返しても、自分の字なのに拾えるのはほんの一部という(笑)。
ガイドの方に「ずっとおるなぁ」→「熱心やなぁ」→「まだおんのかい」と思われるくらい松の間にじっくりと滞在し、その後紫雲の庭を散策。
行先は、亀さんが教えてくれるから~とガイドの方に見送られ、行けど行けども亀なんていませんが・・・?と、ふと足元に視線をやれば・・・いました、亀。
その後道に点々と亀が埋め込まれていたので、ガイドの方の言ってたことに嘘はなかった!
お庭から見た大方丈。
大満喫したところで、大方丈を後にします。
せっかくなのでと西翁院を見学後、境内をとことこと移動。
こちら、最近すっかり有名になったアフロの仏様。
お名前は「五劫思惟阿弥陀仏像」と言います。
長い長い時間だたひたすら思惟をこらし修行した結果、髪が伸びっぱなしになってしまったらしく、決してアフロではないのですよ~(笑)。
こちらの仏様の脇の階段をとことこと上がり、左に折れて最奥へ行きますと、会津墓地があります。
先程の松の間の展示に、境内の墓地を借りるため文久3年(1863)2月に白銀50枚で墓地を契約した、という旨の書状がありました。
書状の「墓地」とは、きっとこの会津墓地を指すのでしょう。
文久2(1862)年から慶応3(1867)年の5年間にこの地で亡くなった会津藩士237名と、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名の慰霊碑など、352名がここに祀られています。
金戒光明寺へ来たら、必ずご挨拶に伺います。
最近、会津の方から伺った話なのですが、幕末から明治のあの時、西雲院(会津墓地の管理をして下さってる)の住職は、「都を守った恩義に報いるのは当然であり、仏になった者に罪など無い」 と、ここを死守してくださったようです。
今も西雲院の方の管理のお蔭で、会津墓地の平和は守られております。
ありがとうございます。本当にありがとうございます。
みかん京都を歩く 1
先日京都に行きました時、帰り際に京の冬の旅(51回)のパンフレットを見つけまして。
今年は大政奉還150年という節目も相俟って、テーマは「大政奉還150年記念」。
幕末と聞いて、私の食指が動かないわけがない!
というわけで、後日改めて行ってまいりました、寒い寒い冬の京都。
まずは妙法院から。
平生は非公開で、かつすぐそばに三十三間堂やら養源院やら豊国神社といった有名どころがあるせいか、一般的な知名度としてはそんなに高くないのではないでしょうか。
そんな妙法院、13年ぶりの公開だそうです。
門扉が開いてるのを初めて見ました・・・。
入っていいんだよね?とびくびくしながら、そろっと門を潜ります。
空気の冷たさが肌に突き刺さりましたが、それでも春はゆっくりゆっくりこちらに来てくれてるんだな、と思った一枚。
屋内の写真撮影は禁止でしたが、外は何処でもどうぞということでした。
方広寺や蓮華王院や新日吉神社もかつては妙法院の管轄下だったとか(蓮華王院は今でも妙法院所属らしい)。
歴代門主の門主はほとんど皇族ゆかりの方で、そのためやんごとなき方々の御位牌やらもここにあるのだとか。
最近ですと(といっても幕末年間のお話し。京都の人の“最近”の尺度おかしい・・・)有栖川宮熾仁親王の弟君・威仁親王が門主相続の予定だったのですが、明治維新のあれこれでその話は無かったことになりましたが、その御縁で宮の御位牌はこちらにあるのだとか。
恥ずかしながら、名前と場所くらいしか知らなかったので、見ること聞くこと全部お勉強になります。
まず受付を終えて通されるのが国宝の庫裏。
1595年(文禄4)頃の建築で、本瓦葺入母屋造という安土桃山時代の建築物のようで、土間・板の間・座敷と分かれてます。
天井を見上げれば露出した小屋組の梁の、まあまあ組み方の細かいこと細かいこと。
一番高いところで約60尺あるそうで、外から見た時にちょっと屋根から飛び出してた部分(下写真参考)は、江戸時代は物見櫓として活用されていたそうです。
土間には厨がありまして、豊臣秀吉が千僧供養を行った際に建てられたと説明を受けたのですが、この台所の規模で千人分賄えるか?と小首を傾げていたら、当時のままではなく、縮小されているらしいです。
庫裏から廊下を渡って奥に行きますと、伏見城の内庭より移したと伝わる大書院庭園があります。
といっても、こちらもそのままの規模で移したわけではなく、縮小したようですが。
池の形が瓢箪になってて、ああ豊臣風だな~と。
池に架かってる橋は、石橋ではなく楠の化石のようで、上賀茂神社にも同じのがありますね。
その他、太閤さん関連の資料は宝物館に大量に展示されておりますが、そこに筆を割きたいわけではなくて。。。
宸殿で特別展示されているという、「七卿落図」が、妙法院に於ける最大の目的でした。
七卿落ちというのは・・・の前に、文久3年(1863)に起こった八月十八日の政変の説明から。
いわゆる中川宮・会津・薩摩結託による孝明天皇承認のもとに行われた政治クーデターなのですが、これによって三条実美、三条西季知、正四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉ら(正確に言えば急進派公卿20名余り)は孝明天皇より参内停止・他人面会禁止の勅が下されました。
また国事参政・国事寄人の役職は廃止、議奏は更迭。
何かずらずら書いてますが、まあ要は急進派が朝廷より一掃されたわけです。
朝廷から一掃されると政治にも携われなくなりますから、現代風に言い換えると「政界追放」になるのでしょうか。
このような理由で朝廷に居られなくなった7人は、鷹司邸へ行き、そこでまたごちゃっと揉めて(割愛)、その後にやって来たのが妙法院の宸殿です。
(外から見た宸殿)
そしてここで集まった7人と、同じく御所の警固を解かれて追われる形となった長州藩兵らは、今後の事を話し合います。
摩耶山で義兵を挙げるべきだ!金剛山で義兵を挙げるべきだ!という意見もあったそうですが、結局長州は「徒に戦没して不忠不義の汚名を泉下に留めんよりは、一度防長に退きて再挙を図るにしかず」と西下の途につくことに。
この時の様子を題材にしたのが「七卿落図」。
大正10年10月に、七卿落ち50周年を記念として制作されたそうです(田中有美・筆)。
え、記念なの?と、全力で説明書きに突っ込みました。
彼らにとって、都落ちさせられたこの経験って、すんごい苦い思い出だと思ってたんですけど、記念なのか・・・そうか・・・。
こんな感じで無駄にキリッとしてました(画力足りず、お目汚しですみません)。
こちらの三条実美は土方久元が書いたそうです・・・待て待て、あなたも一緒に長州に行った人じゃない・・・。
ちなみに、展示されているのは七卿の内三条実美のものだけですが、学生ガイドさん曰くちゃんと7人分肖像画があるんだそうです。
いつか7人並ぶ日が来たら良いですね、それこそ何かの記念日に(苦笑)。
外にある「七卿碑」。
案内板より「(前略)後の維新を期して、西国へ向け出京したという「七卿落ち」の記念碑で有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正1(1912)年9月に建立されたものです。毎年10月には、いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられています。(以下省略)」。
やっぱり七卿落ちは苦い思い出じゃなくて記念なのか(笑)。
もう妙法院でのあれこれ、全部そこに掻っ攫われて行った気がします。
七卿落ちは記念!
これ、テストに出ますよ!(笑)
みかん松山へ行く 3
さて、以後は松山の美味しい物の話をば。
いやはや、それにしても・・・。
ハンドルネームにするぐらい蜜柑が好きなのですが、松山は右を見ても左を見ても蜜柑みかんミカン。
流石柑橘王国!
「道後たま屋」さんでゲットした蜜柑おにぎりをもぐもぐしたり
いよかんソフトクリーム食べたり
柑橘ジュースを四種類同時に飲み比べたり
口がひとつじゃ足りないくらい忙しいです。
ついでに財布が狙い撃ちされました。
あらゆる柑橘系の食べ物や加工品が立ち並ぶ中、一番驚きましたのがこちら。
蛇口から蜜柑ジュース。
噂には聞いておりましたが、これが。
(いつか我が家にも是非とも設置したいものです)
夜のちょい飲みに道後ビールにせざんぎ。
その後、ちゃんとした夕ご飯を食べようと、温泉街を散策。
鯛飯にしようかとも思いましたが、もぶり飯にしました。
夏目漱石が初めてのぼさんの家を訪れた時、のぼさんは漱石をこの寿司でもてなし、漱石は凄く喜んだそうで。
松山地方では混ぜることを「もぶる」というそうで、それが名前の由来らしいです。
と、板前さんに教えて頂きました。
少し甘めの酢の効いた、瀬戸内の海の幸をふんだんに使ったひと品、ごちそうさまでした。
やっぱり柑橘類が大好きです🍊