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みかん京都を歩く 2

続きまして、黒谷さんこと金戒光明寺へ。

少し前まで京都市内に住んでたので、移動は自転車でスイスイだったのですが、引っ越した今となっては市バスを活用するしかなく。

観光客や修学旅行生と車中芋洗いになりながらの移動になりました(泣)。

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京都守護職の任に就いた会津藩が、本陣を置いたのがこの金戒光明寺

最初京都守護職を拝命したとき、会津は二条城に本陣を置いてそこに入ろうとしたのですが、それだと二条城在番と同じことになるからと、当分の間は所司代千本屋敷を宛がわれていました。

しかし所司代屋敷は100人の足軽とその家族のために営まれたものなので、会津の隊列1000人を収容出来るわけもなく。

そこで幕府が、人が入らないなら御所近くに土地を買えば良いと、急遽都に会津藩邸を建てることになったのです。

けれども容保様らの入京まで時間がなく、そういうわけでそれが建つまでは金戒光明寺が本陣となったのです。 

(以上は大河逍遥のこちらの記事より引用) 

ちなみに、今回初めて知ったことなのですが、金戒光明寺には当初芸州浅野家が入る予定だったそうです。

芸州浅野家の初代藩主浅野長晟の正室・振姫(德川家康三女)の菩提寺がこちらという御縁から付き合いがあり、浅野家からは寺領百石も寄進され、安永年間の火事の時は多くの寄進をしたそうで。

要は江戸時代まるっと、なが~いお付き合いがあったわけですな。

なのでそこに会津が入ると聞いて強く反発したようですが、幕府の裁定によって会津が入ることに。

これぞ御上のひと声・・・浅野家は面白くなかったでしょうが。

そんなやりとりが、展示されていた「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」から学べました。

少し順番が前後しましたが、まずは本堂へ。

この寺に「光明寺」と名前がついた由来や、その後「金戒光明寺」になったこと、御本尊の説明などをふむふむと聞いて、奥の大方丈へ。

本殿から大方丈へ入って、一番手前の部屋が謁見の間。

新選組が容保様と謁見した場所です。

残念ながら当時の方丈は昭和初期に消失しており、現在のものは同じ間取りで再建されたものですが、この距離感で容保様と謁見されてたのかなぁ、なんてつい想像してしまいます。

筆頭局長も来てますよね、絶対。

謁見の間の隣が松の間、そして角が虎の間です。

虎の間は襖の開閉によって見え方が変わる面白いお部屋でして、客人がここで待たされたとガイドさんが仰ってたので、つまりあの人やこの人も虎と睨めっこしてたのかなぁ、とまた想像してしまいます。

松の間は史料の展示がされてまして、パンフレットにも掲載されている容保様の具足「残英(散り残った、しなびた花のこと)」や長刀の刀(銘越前住武蔵守藤原兼中)、「文久三年御上洛御用掛冊子江戸日本橋南壱町目須原屋兵衛殿」、14代将軍の情ら鵜に際しての幕府職制一覧、 山本八重子「明日乃夜は~」と「いくとせか~」の直筆和歌、「黒阿弥陀」、容保様和歌、「志無虚邪行必正直游 居有常必就有徳  源容保 」、前述しました「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」など。

展示されているものの密度が、私的に大変危険でした、松の間。

這いつくばるようにして一生懸命メモの筆を走らせますが、寒さで手が悴んでまともな字が書けないのが悔やまれました。

いま読み返しても、自分の字なのに拾えるのはほんの一部という(笑)。

ガイドの方に「ずっとおるなぁ」→「熱心やなぁ」→「まだおんのかい」と思われるくらい松の間にじっくりと滞在し、その後紫雲の庭を散策。

行先は、亀さんが教えてくれるから~とガイドの方に見送られ、行けど行けども亀なんていませんが・・・?と、ふと足元に視線をやれば・・・いました、亀。

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その後道に点々と亀が埋め込まれていたので、ガイドの方の言ってたことに嘘はなかった!

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お庭から見た大方丈。

大満喫したところで、大方丈を後にします。

せっかくなのでと西翁院を見学後、境内をとことこと移動。

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こちら、最近すっかり有名になったアフロの仏様。

お名前は「五劫思惟阿弥陀仏像」と言います。

長い長い時間だたひたすら思惟をこらし修行した結果、髪が伸びっぱなしになってしまったらしく、決してアフロではないのですよ~(笑)。

こちらの仏様の脇の階段をとことこと上がり、左に折れて最奥へ行きますと、会津墓地があります。

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先程の松の間の展示に、境内の墓地を借りるため文久3年(1863)2月に白銀50枚で墓地を契約した、という旨の書状がありました。

書状の「墓地」とは、きっとこの会津墓地を指すのでしょう。

文久2(1862)年から慶応3(1867)年の5年間にこの地で亡くなった会津藩士237名と、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名の慰霊碑など、352名がここに祀られています。

金戒光明寺へ来たら、必ずご挨拶に伺います。

最近、会津の方から伺った話なのですが、幕末から明治のあの時、西雲院(会津墓地の管理をして下さってる)の住職は、「都を守った恩義に報いるのは当然であり、仏になった者に罪など無い」 と、ここを死守してくださったようです。

今も西雲院の方の管理のお蔭で、会津墓地の平和は守られております。

ありがとうございます。本当にありがとうございます。 

みかん京都を歩く 1

先日京都に行きました時、帰り際に京の冬の旅(51回)のパンフレットを見つけまして。

今年は大政奉還150年という節目も相俟って、テーマは「大政奉還150年記念」。

幕末と聞いて、私の食指が動かないわけがない!

というわけで、後日改めて行ってまいりました、寒い寒い冬の京都。

まずは妙法院から。

平生は非公開で、かつすぐそばに三十三間堂やら養源院やら豊国神社といった有名どころがあるせいか、一般的な知名度としてはそんなに高くないのではないでしょうか。

そんな妙法院、13年ぶりの公開だそうです。

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門扉が開いてるのを初めて見ました・・・。

入っていいんだよね?とびくびくしながら、そろっと門を潜ります。

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空気の冷たさが肌に突き刺さりましたが、それでも春はゆっくりゆっくりこちらに来てくれてるんだな、と思った一枚。

屋内の写真撮影は禁止でしたが、外は何処でもどうぞということでした。

妙法院天台宗三門跡のひとつだそうです。

方広寺や蓮華王院や新日吉神社もかつては妙法院の管轄下だったとか(蓮華王院は今でも妙法院所属らしい)。

歴代門主門主はほとんど皇族ゆかりの方で、そのためやんごとなき方々の御位牌やらもここにあるのだとか。

最近ですと(といっても幕末年間のお話し。京都の人の“最近”の尺度おかしい・・・)有栖川宮熾仁親王の弟君・威仁親王門主相続の予定だったのですが、明治維新のあれこれでその話は無かったことになりましたが、その御縁で宮の御位牌はこちらにあるのだとか。

恥ずかしながら、名前と場所くらいしか知らなかったので、見ること聞くこと全部お勉強になります。

まず受付を終えて通されるのが国宝の庫裏。

1595年(文禄4)頃の建築で、本瓦葺入母屋造という安土桃山時代の建築物のようで、土間・板の間・座敷と分かれてます。

天井を見上げれば露出した小屋組の梁の、まあまあ組み方の細かいこと細かいこと。

一番高いところで約60尺あるそうで、外から見た時にちょっと屋根から飛び出してた部分(下写真参考)は、江戸時代は物見櫓として活用されていたそうです。

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土間には厨がありまして、豊臣秀吉が千僧供養を行った際に建てられたと説明を受けたのですが、この台所の規模で千人分賄えるか?と小首を傾げていたら、当時のままではなく、縮小されているらしいです。

庫裏から廊下を渡って奥に行きますと、伏見城の内庭より移したと伝わる大書院庭園があります。

といっても、こちらもそのままの規模で移したわけではなく、縮小したようですが。

池の形が瓢箪になってて、ああ豊臣風だな~と。

池に架かってる橋は、石橋ではなく楠の化石のようで、上賀茂神社にも同じのがありますね。

その他、太閤さん関連の資料は宝物館に大量に展示されておりますが、そこに筆を割きたいわけではなくて。。。

宸殿で特別展示されているという、「七卿落図」が、妙法院に於ける最大の目的でした。

七卿落ちというのは・・・の前に、文久3年(1863)に起こった八月十八日の政変の説明から。

いわゆる中川宮・会津・薩摩結託による孝明天皇承認のもとに行われた政治クーデターなのですが、これによって三条実美三条西季知、正四条隆謌東久世通禧壬生基修錦小路頼徳、澤宣嘉ら(正確に言えば急進派公卿20名余り)は孝明天皇より参内停止・他人面会禁止の勅が下されました。

また国事参政・国事寄人の役職は廃止、議奏は更迭。

何かずらずら書いてますが、まあ要は急進派が朝廷より一掃されたわけです。

朝廷から一掃されると政治にも携われなくなりますから、現代風に言い換えると「政界追放」になるのでしょうか。

このような理由で朝廷に居られなくなった7人は、鷹司邸へ行き、そこでまたごちゃっと揉めて(割愛)、その後にやって来たのが妙法院の宸殿です。

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(外から見た宸殿)

そしてここで集まった7人と、同じく御所の警固を解かれて追われる形となった長州藩兵らは、今後の事を話し合います。

摩耶山で義兵を挙げるべきだ!金剛山で義兵を挙げるべきだ!という意見もあったそうですが、結局長州は「徒に戦没して不忠不義の汚名を泉下に留めんよりは、一度防長に退きて再挙を図るにしかず」と西下の途につくことに。

この時の様子を題材にしたのが「七卿落図」。

大正10年10月に、七卿落ち50周年を記念として制作されたそうです(田中有美・筆)。

え、記念なの?と、全力で説明書きに突っ込みました。

彼らにとって、都落ちさせられたこの経験って、すんごい苦い思い出だと思ってたんですけど、記念なのか・・・そうか・・・。

そして「七卿落図」の隣には、27歳の三条実美肖像画が。

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こんな感じで無駄にキリッとしてました(画力足りず、お目汚しですみません)。

こちらの三条実美は土方久元が書いたそうです・・・待て待て、あなたも一緒に長州に行った人じゃない・・・。

ちなみに、展示されているのは七卿の内三条実美のものだけですが、学生ガイドさん曰くちゃんと7人分肖像画があるんだそうです。

いつか7人並ぶ日が来たら良いですね、それこそ何かの記念日に(苦笑)。 

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外にある「七卿碑」。

案内板より「(前略)後の維新を期して、西国へ向け出京したという「七卿落ち」の記念碑で有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正1(1912)年9月に建立されたものです。毎年10月には、いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられています。(以下省略)」。

やっぱり七卿落ちは苦い思い出じゃなくて記念なのか(笑)。

もう妙法院でのあれこれ、全部そこに掻っ攫われて行った気がします。

七卿落ちは記念!

これ、テストに出ますよ!(笑)

みかん松山へ行く 3

さて、以後は松山の美味しい物の話をば。

いやはや、それにしても・・・。

ハンドルネームにするぐらい蜜柑が好きなのですが、松山は右を見ても左を見ても蜜柑みかんミカン。

流石柑橘王国!

 

「道後たま屋」さんでゲットした蜜柑おにぎりをもぐもぐしたり

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いよかんソフトクリーム食べたり

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柑橘ジュースを四種類同時に飲み比べたり

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口がひとつじゃ足りないくらい忙しいです。

ついでに財布が狙い撃ちされました。

あらゆる柑橘系の食べ物や加工品が立ち並ぶ中、一番驚きましたのがこちら。

蛇口から蜜柑ジュース

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噂には聞いておりましたが、これが。

(いつか我が家にも是非とも設置したいものです)

 

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夜のちょい飲みに道後ビールにせざんぎ。 

その後、ちゃんとした夕ご飯を食べようと、温泉街を散策。

鯛飯にしようかとも思いましたが、もぶり飯にしました。

夏目漱石が初めてのぼさんの家を訪れた時、のぼさんは漱石をこの寿司でもてなし、漱石は凄く喜んだそうで。

松山地方では混ぜることを「もぶる」というそうで、それが名前の由来らしいです。

と、板前さんに教えて頂きました。

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少し甘めの酢の効いた、瀬戸内の海の幸をふんだんに使ったひと品、ごちそうさまでした。

 

やっぱり柑橘類が大好きです🍊

みかん松山へ行く 2

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松山や秋より高き天主閣

正岡子規明治24年『寒山落木』)

というわけで、やって来ました松山城

ロープウェイかリフトで上れるのですが、待ち時間ゼロなリフトを選択。

高所恐怖症ではないのですが、中途半端の高さに自分の足が浮いてる状態がとても苦手なので、空中散歩ならぬ苦中散歩でした・・・。

6分の苦行に耐え、長者ヶ平に到着。

そこから天守入口まで10分ほどとのことでしたが、天守に飛びつく前に松山城来たら、登り石垣見なきゃ!ということで、観光客の波からひとり逸れててくてく。

寸暇を置かず、見えて参りました登り石垣!

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洲本城の、破却された中でも頑張って生き残ってる石垣も良いですが、このようにほぼ完全な姿(南側だけですが)で残っているのも素晴らしいです。

これで洲本・彦根・松山、それから竹田城の登り石垣を見たので・・・残るは海の向こう、倭城かしら。

そんなことを思いながら、ここで気付いたのですが、あれ、何か私道を下って来てない?とな。

慌てて地図を開くと、そろそろ二の丸付近ということが判明。

ロープウェイで苦行に耐えながらも上って来た意味なし!(涙)

まあ、素晴らしい登り石垣に会えたからいいよ、と肩を少し落としながら、黒門口登城ルートから本丸を目指します。

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てくてく歩いていると、道から覗きこめた二の丸庭園に蜜柑の樹が植わってることを確認。

流石柑橘王国のお城!

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鬱蒼とした森の中を、江戸時代の皆様の気分になってえっちらほっちら。

山城ほどではありませんが、このルートを行くなら靴は少し考えた方がいいかもですね。

そのまま10分ほどの森林散歩を抜けると、石垣のセレモニーを受けます。

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まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

(中略)

四国は伊予松山に、三人の男がいた。

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたっては勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦をたて、それを実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。

もうひとりは、俳句短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れて、その中興の祖となった、俳人正岡子規である。

彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。

のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」冒頭より)

 この景色を見た時、ドラマの冒頭が脳裏に自動再生されました。

ちょっといたところに、ドラマのポスターの撮影スポットがあったのですが、ひとりじゃ撮れないので断念。

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城好きさんに言ったら呆れられそうな駆け足速度で、松山城を見て来ました。

本当に「見た」だけで終わってるので、お城については再訪決定です。

 

そして子規庵へ。

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子規庵から出て来た方が、あまりにもあらゆる角度からのぼさんを撮りまくってるおなごにドン引きしたのか、よければ一緒に撮りましょうか?と声をかけて下さったので、のぼさんの「旅だち」と同じポーズでツーショット。

夢みたいです。

子規堂はのぼさんが17歳まで生活した家を復元したものです(三代目)。

小さいながらも展示物の数は100点ほどと、大変充実しております。

のぼさんの勉強書斎や、「発句経比喩品」などなど、根岸の子規庵よりも個人的にはこっちの方が良いかもです。

埋髪搭や正岡家のお墓にもご挨拶に伺い、さて次は・・・と思ったら、とんでもないものが。

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控えめに申し上げると、晒し首かと思いました
もう少し何とかならなかったのか・・・(笑)。

 

気を取り直して、次へ。

まだまだ続きます、のぼさん巡り。

再び、伊予鉄道に乗り込み大街道で下車。

一般観光客なら、この辺りでしたら萬翠荘坂の上の雲ミュージアムに行くのでしょうが、私のお目当ては別にありまして。

しかし、探せど探せど目的のものは見つからず。

いえ、建物自体がもうないので見つけにくいのは分かってましたが、こうも何もなかったようになってるものなのか?と諦めようとしていたら、お掃除のおじさまが声をかけて下さいました。

「何探してるの?」

愚陀仏庵です

「愚陀仏庵ピンポイントで探してここに来る人に初めて会った(笑)」

ディープな子だな、と笑われながら、案内して頂きました。

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2010年の台風で壊れてしまった愚陀仏庵。

漱石の下宿先で、のぼさんの乗っ取り先(笑)。

跡地すら立ち入り禁止で近付けません。

看板すらないので、え、どこ?ってなりますが、写真中央の白い看板の上あたりにあったそうです。

再建の方向には動いてるみたいで、でも建物建てるのに後ろの山の木の根が地中深くまで張ってるから、まずはそれを撤去しなきゃ始まらないとか。

レプリカが正岡子規記念博物館にあるよ、と教えて頂き、それならば行ってきます!とおじさまに見送られ、今度は正岡子規記念博物館へ。

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ありました、レプリカ。

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館内唯一撮影OKです。

靴脱いで中にも上がれちゃうので、のぼさん気分が楽しめます。

他にも「病牀六尺」の原稿があったり、ワ―とかキャーとか、久し振りに展示物で興奮しすぎて疲れました。

閉館時間になって出てくる頃には、立って寝れるくらいの疲労感に襲われておりましたが、帰りの船まで時間があるのですぐお隣の湯築城へ。

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土塁やら堀やら、すっかり現代風に整備(というか整形)されてしまってるなー、という印象が(汗)。

本当に小一時間お散歩するだけで終わってしまった感が・・・。

そして後で知ったのですが、100名城だという。

本当にセレクトラインが謎ですね、100名城。

 

職場から、突如休みを与えられて急遽決めた弾丸松山旅。

のぼさん充実を優先させるあまり、疎かになってしまった部分が多いので、今度は松山城を堪能しに来ようと思います。

坂の上の雲」ゆかりの地だからか、大学時分の自分を頭の中で連れ回しながらの、ひとり旅なんですけどひとり旅じゃなかった気がする、不思議な旅でした。 

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みかん松山へ行く 1

おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける。(夏目漱石『坊ちゃん』)

 というわけで、伊予の国に降り立ち、まずは道後温泉へ。

『坊ちゃん』を読むたびに触れて来たあの場所で、レッツ朝風呂です。

千と千尋の神隠しのモデルとも言われる本館・・・でもジブリは否定していたような?

耐震工事のため、9年間入れなくなるとの情報を得、慌ててやって来ました。

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(その後、話は一転二転として部分閉館という処置に変わったようですが、この時の私はそんなこと露知らず)

こういったものにお尻を叩かれないと、なかなか旅立てないって駄目ですね。

旅人レベルはまだまだ1のようです。

レベルアップの道程は長い。

 

坂の上の雲」でも勿論ロケ地になった道後温泉

勿論、実際の秋山兄弟やのぼさんも入ったのだろうな・・・などと想像しながら、早朝だったためか贅沢にも湯船独り占め状態。

湯上りのお供に坊ちゃん団子を摘まみ、その後坊ちゃんの間を見学。

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冒頭から坊ちゃん坊ちゃんと連呼してますが、実は夏目漱石の坊ちゃんは、読んだことのある方ならご存知かと思いますが、どうしてなかなか結構松山に対して手酷く書かれた作品だったりします。

そんな酷評の羅列の中で、唯一坊ちゃん(≒作者の漱石自身でしょう)がいいと思ったもの、それが道後温泉です。

 

朝風呂を堪能した後は、伊予鉄道に乗って松山市内へ。

丁度、坊ちゃん列車が来ていました。

(慌てて飛び乗ったため、写真は後々町中で撮影したもの)

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停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。(夏目漱石坊っちゃん』) 

マッチ箱に揺られ揺られ、大街道駅で降りて向かった先は秋山兄弟生誕地

昭和20年の松山空襲で、建物自体は燃えてしまいましたが、有志の方々によって平成17年に復元されたものです。

建物自体は現代のものですが、復元に当たっては戦前の写真や子孫の方々などの記憶を元にしたようで。

中には秋山兄弟の書簡や関係写真など、資料が展示されてます。

好古さんは1924年から、亡くなる1930年までこの地に住み、北予中学校に通勤していました。

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「一以貫之」「人事有憂楽山光無古今」「質實剛健」

全て好古さんの筆です。

どれも素晴らしく好古さんのお人柄を現していますね。

真之さんのものがひとつもないのが、少し寂しい気もしましたが・・・「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」とかあったら滾るのですが・・・そういえばあれの原本って何処にあるんだろ?

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敷地内にある秋山兄弟の銅像

兄弟が目と目を合わせる形で配置されています。

好古さんは、墓は仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立しないように、と質素を貫いて逝去されたのですが・・・銅像、建てられてますね(笑)。

当初の予定では立像だったようですが、「騎兵の秋山」と謳われた好古さんを馬から下ろすことは如何なものか、という意見が多くあったようで、このように騎馬像になりました。

これが先代好古像のお話で、現在我々が見ているのは二代目。

といいますのも、初代の騎馬像は湯築城内にあったのですが、戦中の金属供給で鋳潰されてしまいました。

しかし初代のレプリカが県立松山北高等学校に保存されていたので、それを参考にして二代目が生まれたという次第です。

真之さんの銅像に関しましては、防衛省にあるものについてはエピソードがあるのですが、こちらものもは好古さんのようなエピソードが見当たらず。

と、真之さんを見つめていたら、その後ろにある建物にちょっと目が行きまして。

札を見てみれば常磐会の文字が。

ガイドの方「これって、あの常磐会ですか?」とお聞きすると、「はい、あの常磐会です」とな。

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常磐会は、坂の上の雲にも出て来た、旧松山藩士の師弟を育成する団体のことです。

のぼさんも給費生でしたが、文学方面にお熱になりすぎて、削られてしまったのですよね。

明治当時、常磐会は果てはお大臣博士になるような子弟のために給費金を援助しているのであって、給費生が詩人歌人あるいは小説家になることなどとんでもないことだったので。

その辺りのお話は、またいずれ。