みかん松山へ行く

運命の出会いを信じますか?

と書き出せば、此奴変なものに引っかかってんじゃないだろな、と心配されそうですが、違います。念のため(笑)。

 

大学一回生の頃、卒業論文新渡戸稲造の『Bushido: The Soul of Japan』をやる!と燃えておりました。

しかし三回生の春、いざゼミに入って卒論を本格的に着手、となった時のことです。

某青い看板の書店にて、平積みになっていたとある文庫本に出会いました。

本の名前は『坂の上の雲』。

明治初期から日清・日露戦争を経て近代国家になろうとしている日本を 描いた、司馬遼太郎の作品です。

当時、スペシャルドラマとして映像化されると決まったこの本は、その宣伝文句を乗せた帯を巻かれ、其処彼処の書店に並べられていました。

幕末は大好きな私ですが、明治に入るとからっきし駄目で、西南戦争くらいまでは何とか最低限の知識はあるけど・・・、な状態でして。

平たく言えば、幕末以降の歴史に興味もなければ、興味がないので知ろうともしませんでした。

簡単に言えば明治時代レベル0な状態。

ついでに言えば、経験値積む予定0な状態。

しかし。

まさかのとさか。

人生とはいつ何時なにが起こるか分からんもので。

(だからおもしろいのですが)

奇怪な物言いに聞こえるかもしれませんが、「喚ばれ」ました。

平積みになってる、『坂の上の雲』に。

 

そのまま、後は早いのなんの。

一気に文庫八巻を買い、抱き抱えながら帰宅し、11日で読破しました。

あれだけやる気を燃やしていた『Bushido: The Soul of Japan』は何処へやら。

長年頭の中でいちゃついて来た新渡戸稲造は何処へやら。

坂の上の雲』を買った時、多分自分の何かのスイッチがぽちっと入って、今まで起動していなかった部分が動き始めたのだと。

まあ、何でもいいです。

取り敢えず、喚ばれて、そして出会いました。

そこからは尻軽なもので、2年想い続けていた新渡戸稲造から、あっさり『坂の上の雲』へ乗り換え。

斯くのような次第で、『坂の上の雲』で卒論を書くことにしました。

中でもテーマに絞ったのが、正岡子規

なかなかに難産で(難産でない卒論などないのでしょうが)、唸りながら書いて、苦しみながら書いて、脳髄これでもかと絞って絞って・・・。

いやしかし、六尺の病牀に縛られ続けたのぼさんのことを覚え場このくらいの苦しみなんのそのー!と己を励まし・・・。

(ついでに就職超氷河期に凍え死に)

 卒論を書き上げた時には、人生で一番丁寧に付き合った歴史上の人物は正岡子規です!と言い切れるようになりました。

それは良いとして、物語の始まったあの場所に行けていないなと。

前ぶりが大変長くなりましたが、そんな私が瀬戸の波を越え越え、伊予の港へ降り立ったのは2016年4月のこと。

松山旅の、はじまりはじまり。

 

みかん会津へ行く 3

始まりあるものには終わりもあるのが世の常でして。

カッコいいこと言ってますが、単に会津旅が終わってしまう悲壮感に駆られていただけです。

会津最後の1日。

帰りたくないよ~帰りたくないよ~と嘆きながら、朝からホテルのこづゆを6杯たらいあげ。

やっぱり、行程練ってないので、今日をどう過ごそうかと考えた結果。

今度会津に来る時は、絶対誰かと一緒でしょうから、誰かが一緒だと遠慮して出来ないようなコトをしよう!という結論に至りました。

となれば、飯盛山も滝沢本陣も日新館もまた今度。

手作り体験をしようと、鶴ヶ城会館で起き上がり小法師を作りました。

赤べこや絵蝋燭や蒔絵やら唐人凧やら、色んな手作り体験が会津では出来ますが、自分仕様のこれが欲しかったので。

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起伏があるので、意外に顔を描くのが難しかったです。

生まれたてほやほやのこの子を抱え、鶴ヶ城天守閣に朝の挨拶をした後は、廊下橋から向こうのエリアへ。

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三の丸雑穀蔵はこの辺りでしょうか。

八重さんが開城前、簪で「あすの夜は何国の誰かながむらむなれにし御城に残す月かげ」の歌を刻んだとも伝わるこの場所。

大河効果なのか綾瀬はるかさんのパネルがどどーんとありました。

最終日ということもあって、時間が限られているので駆け足気味で次へ。

・・・と、行きたいのに、そうはさせてくれない会津トラップ。

発見してしまったのは、秋月悌次郎さんの「北越潜行」の碑。

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行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉

治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟

聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠

恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城

思之思之夕達晨 憂満胸臆涙沾巾

風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

(書き起こし間違ってたらすみません)

秋月さんは、鶴ヶ城開城後、謹慎中だったにも拘らず変装して謹慎所から抜け出し、昌平坂学問所で同窓だった長州藩士・奥平謙輔さんに会いに行きました。

 その目的はふたつ。

会津藩への善処嘆願と、藩の将来を託すに足る少年(山川健次郎・小川亮)を預かって欲しいという嘆願でした。

奥平さんはその頼みを聞き入れ、ふたりを書生として引き取りました。

嘆願を受け入れられた、その帰りに、雪の束松峠で詠まれたのが「北越潜行」です。

会津戦争間もない当時の状況から察するに、一長州藩士に過ぎない人物が、会津に手を差し伸べる行為は、上から睨まれたら一溜りもない行為だったでしょう。

会津と長州、色んなことが現在に亘ってまでも言われていますが、いがみ合うばかりの面だけでなく、こういう一面も歴史の一部として広く知られて行ったらなと思います。

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私はこう考えますが、どうでしょうか、と振ってみたものの、大河主人公はお口をへの字にしておられました。

そうそう、桜といえば。

今となっては桜が多い鶴ヶ城ですが、会津藩の頃は桜ヶ馬場以外にはほとんど桜はなかったそうです。

言われてみれば、お城って軍事要塞ですものね。

その点から鑑みると、愛でるくらいしか出来ない桜よりは、実を付けるものとか役立つものを植えるのは至極当然なわけでして。

明治期、鶴ヶ城の管理と整備を任されていた遠藤十次郎さんの尽力が、今日の桜で埋もれんばかりの鶴ヶ城に繋がったんだとか。

後日、Twitterでのやりとりで会津の方から教えて頂いたことなのですが、東日本大震災の後は、桜満開の鶴ヶ城に人気はなく、ただただ桜が寂しそうだったそうです。

GWのせいか、駐車場が満車で人も多かったこの時からは想像も出来ないことでしたが、十次郎さんが整備して桜を植えた鶴ヶ城に、また沢山の人が訪れて下さってることを、部外者ながら大変喜ばしく感じました。

 

その後、フォロワーさんの和泉と落ち合うため、城から脱出。

再び東山方面へ向かいますが、その途中鶴ヶ城の外側の防衛ラインの土塁(天寧寺町土塁)を発見。

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予想以上にしっかり残ってました(地図)。

写真だと伝わりにくいですが、奥までずずず~っと土塁が続いてます。

しかし、初夏とはいえ天気に恵まれているせいか、興奮しすぎなのか、会津は暑かったです。

東北って涼しいイメージだったんですけどね。

ということで、会津武家屋敷の土産店にてこんなものを調達。

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アイスキャンディーならぬ、あいずキャンディー。

思わず「上手い!」と膝を叩いてしまいたくなるギャグですね。

勿論、会津産の材料で出来ております。

そうこうしていると、無事に市内の混雑を潜り抜けて来てくれた和泉と合流。

お昼ご飯に、ソースかつ丼を頂きました。

会津ソースかつ丼の起源は様々言われていますが、ただひとつ確かなのは、ソースかつ丼にキャベツを入れたのは会津が初めて、ということ。

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美味しかったのですが、あまりの量に逆兵糧攻めされました。

これを頂く前に、あれこれ摘まんでたので、今度はお腹を空かしてから臨むことにします。

そして、楽しい時間はあっという間に。

とうとう、会津の地を離れる時間がやって参りました。

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誰も振り返してくれる人はいないのに、会津若松駅の駅舎に向かって全力で手を振っておりました。

また来ます。

また逢いに来ます。

いつも想ってましたが、これからもずっと想ってます。

再会の日まで待て暫し。

斯くのような形で、私の会津旅は幕を閉じたのでした。

みかん会津へ行く 2

今回の会津旅は2泊3日の予定。

つまり、2日目はまるっと24時間会津に滞在出来るということでして。

いや、至極当然のことなのですが、それが「会津に」となると、もう幸せすぎてどうにかなってしまいそうな。

そんな朝から始まりました、会津2日目。

ホテルの朝食で元気に会津米とこづゆを食べ、会津ファンクラブの会員証とハイカラさん・あかべぇの1日乗車券を握り締め、八重たんを相棒にいざ往かむ。

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勇んでホテル(実は大町口門跡)を出たものの、実は今回の旅の目的は「会津に行くこと」でして。

笑えるくらい、行程を練って来なかったのです。

がっつきたくなくて。

ただこの町にどうしても来たかった、それだけでした。

とはいえ、前日入城のお預けを食らった愛する鶴ヶ城天守閣には入っておきたいと思い。

登城するならするで、やっぱり一番槍つけたいと思い。

(前日入れなかった悔しさか、単に負けず嫌いなのか・・・多分どっちもです) f:id:aoimonn:20170107214652j:image

有言実行、一番槍つけました!

おはようございます、私の愛しい人(城)。

赤瓦が今日も素敵です。

登城開始時刻までそわそわし、登城開始になったら一目散に最上階へ。

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展示物すっ飛ばした甲斐もあってか、最上階も暫く人は来ず、ひとり占めでした。

そこから小田山を眺めては「嗚呼あそこからアームストロング砲が」と思い、飯盛山を望んでは「嗚呼あそこで白虎隊が」と思い。

北を見ては甲賀口門を、西を見ては彼岸獅子や娘子隊を、やや南を見ては八重さんの生家跡を。

くるくると、ハツカネズミのように東西南北回って回って。

ふと「あのあたりが松平家墓所だよな・・・。ああああ!」と、そこで回転ストップ。

転げ落ちるように天守閣から脱出し、城内を抜け出し、バスへ飛び乗りました。

この日、実は会津松平家代々の墓所の拝殿で、会津松平家のご当主が祭主となって、歴代藩主の御霊を奉る「お花まつり」が開催されていたのです。

会津松平家のご当主が。。。

会津の殿が。。。

全力疾走する理由なんてこれで十分です。

幸い、タイミングよくバスが来て、無事に始まる前に会津松平家廟所へ到着しました。

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松平家廟所には正之公の嫡子、つまり会津藩主二代から九代までが、ここに眠っておられます。

5万坪のこの規模は日本最大級のものらしいです。

熊も出ると専らの噂のこちら・・・一見すると山城に来てしまったのかと見紛うばかりです。

大自然の中に、少しぴんとした空気を感じて背筋を伸ばしながら、会津藩二世紀半の歴史に順番にご挨拶させて頂きました。

ご当主とご子息は、遠目から尊顔を拝させて頂き、会釈を傾けて頂きまして、泣きそうでした。

容保様の御血筋が、ちゃんと現代にも続いてることを己のまなこでしっかと見て、胸がいっぱいになったのに、そんな時でもちゃんとお腹は空くみたいで。

朝に会津米とこづゆでしっかり満たしたはずなのに、空腹を訴えだした自分の胃袋に苦笑いしながら、下山。

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お昼は、白虎隊も食べたと言われるお秀茶屋にて味噌田楽を頂きました。

(土方さんも召し上がったそうな。療養してた東山温泉が近いので、立ち寄ったのでしょうか?)

 

さて、腹ごなしも終えて、次なる目的地。

・・・は、素通りは出来ませんよね。天寧寺。

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新選組局長の近藤さんがこちらに眠っておられます。

看板にもある通り、誰かが京都三条河原から持ち帰った首が埋められているとも、土方さんが遺髪を埋めたとも言われるこの場所。

もしかしたら何も埋まってないかもしれませんが、土方さんが容保様に願い出で許可され、会津藩士によって建てられたこの墓は、当時の状況下(新選組が朝敵とされていた)から鑑みればこれ以上ないご供養かと存じます。

戒名の「院殿純忠誠義大居士」は容保様の書で、土方さんが建てた墓石は割れてしまったようなので現在あるのは二代目です。 

同じ敷地内には萱野さん、次男の長正さん始め多くの会津藩士と、和泉守兼定さんや昨夏の早乙女貢さんも眠っておられます。

けれども一般的な知名度の差なのか、近藤さんの墓前に足を運ぶ人はお見かけしても、他の皆様には・・・。

 仕方がないことではありますが、ちょっぴり寂しく思いました。

 

再びバスに乗車。

今度は七日町へ。

結局「なぬかまち」と読めばいいのか、「なのかまち」と読めばいいのか、どっちなんでしょうね、この地名(笑)。

地名の由来は読んで字の如く、月々7日に市が開かれていたことから来ています。

街道沿いにあったため、当時は旅籠や料理屋が軒を連ね、明治以降は会津一の繁華街だったそうな。

そんな七日町の景観を残そうと、会津若松市や七日町まちなみ協議会の皆様が尽力して下さってるお蔭で、現代にも素敵な通りとして復活しております。

古い蔵や木造建築は勿論、個人的には「レオ氏郷 南蛮館」「白木屋漆器店」「旧第四銀行会津支店」「郡山商業銀行若松支店」などの洋式建築もおすすめです。

素敵なお店や、美味しそうな食べ物に、あっちから袖ひかれ~こっちから袖ひかれ~で、寄り道の果てに到着しましたのは、阿弥陀寺

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写真に「会津東軍墓地」と書いていることからも分かります通り、会津藩士が眠ってます。

会津戦争で亡くなった会津藩士の遺骸を埋葬する事を新政府は許しませんでした。

・・・いえ、正確には、埋葬禁止令を出した史料的証拠は未だないのですが、旧会津藩士の発言に「城下に放置されていた旧藩の人々」というものがありますこと、また「萬年青」「明治日誌」の述懐から推測するに、埋葬は禁じられていたように伺えます。

(手が回らなかった訳あるまい)

そんな状況下、明治2年に阿弥陀寺長命寺に限り埋葬は許されていたようで、阿弥陀寺には約1300の遺骸が眠り、今でも手厚く供養されています。

また、新選組三番隊組長斎藤一さん、その奥様の時尾さんも眠っておられます。

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境内にある御三階(ごさんかい、おさんかい、とも)。 

かつては鶴ヶ城本丸内にあった建物(小天守に相当)で、戊辰戦争阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年に移築されて本堂とされました。

鶴ヶ城が取り壊されたのは明治7年のことですから、御三階は破却を免れた、鶴ヶ城唯一の現存建物ということになります。

の割には、外見の風化放置が目に着いたり、あと金色の葵紋が宗家紋になってたり(そこは会津葵じゃないと・・・瓦は会津葵でしたが)。

もうちょっと、何とかならないかなぁ、と苦く思うばかりです。

外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。

1階部分初公開だとか・・・!と、心が躍ったのですが、どうやら過去に何度も公開されているようで。

あれ、騙された?

まあ、私の中では初公開ということにしておきます。

1階部分の展示やら何やらは、ガイドの方に懇切丁寧に説明して頂きました。

(嘘です。半分質問攻めにしました。でも快くお付き合いくださいまして、本当にありがとうございます)

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左上から、ぐるっと時計回りに。

・アームストロング砲の砲弾(手前のたけのこの里みたいな形の方)。勿論ホンモノ。つまり、約150年ほど前のあの時、鶴ヶ城に撃ち込まれたもののひとつ。

・天井の傷みが目立つ

・芝五郎さんの筆

・容保様の筆

・八重さんの筆

鶴ヶ城の門の一部

・数年前に出てきたらしい、唯一の容保様のカラー肖像画。晩年の容保様を描いたものですが、容保様がOK出すまで描かされたとか、描かされてないとか(笑)。

・天神川の戦いの絵。明治初期に描かれたものらしく、視点から察するに薩長サイドからの様子でしょう。

 その後、ガイドの方と延々と話をさせて頂いたのですが。

阿弥陀寺は、新選組ファンが斎藤さんのお墓だけ参って、会津の方々の碑には目もくれないで帰って行くことが多々あるのだそうです。

何故彼が会津に眠ってるのか。

阿弥陀寺はどういう場所で、会津の方々の碑は何故斎藤さんのお墓のように独立してないのか。

斎藤さんが好きなのはいいとして、あの場では彼は(変な言い方にはなりますが)主ではなく脇だということ。

その辺りをもう少し・・・というお話を伺って、全くだなと思いました。

強要は勿論出来ないのですが。

偉そうで本当にすみません。

そしてこちらが、もうひとつ埋葬を許された場所、長命寺に残る会津戦争時の弾痕。

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こちらには145人の方が眠っておられます。

修理さんの奥様、お雪さんが自害したとも伝わるこの寺。

名前を刻むことを許されず、ただ「戰死墓」とのみ刻まれた小さな墓碑。

その無念や屈辱は如何ばかりか。

ただただ、手を合わせることしか出来ないこの頃であります。合掌。

 

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まだ外は明るかったですが、色々と散策したり考えたりしたら疲れたので一旦宿に戻ろうとしたところ。何とフォロワーさんのフミーさんが会津に来られてるということで。

どうやら私がツイートで会津会津五月蠅いので、呼び寄せてしまったみたいです。すみません(笑)。

折角ですからと、鶴ヶ城にて合流後、しばし立ち話に付き合わせてしまいました。

その帰り道に立ち寄りました、小澤蝋燭店さん(地図)。

八重の桜の11月頃だったでしょうか。

OPで会津絵蝋燭が映る時があったのを覚えておられる方もおられるでしょうが、あれがこのお店の作業の様子です。

凄く素敵なお店で、私も迷いに迷って迷って、自分の好きな桔梗の描かれたものを購入しました。

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夜は、お宿で色んな事(阿弥陀寺のことが主)を頭の中でぐるぐるさせながら、愛してやまない末廣をちびり。

日本酒は不得手なのですが、末廣は本当に美味しいと思える日本酒です。

その土地に来ないと、見えて来ないものがたくさんありますね。

寧ろ、そっちの方が多いな。

そんな風に思いながら、会津24時間を色んな意味で満喫したのでした。

みかん会津へ行く 1

2011年6月22日、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の制作発表が行われました。

主人公は山本八重、物語の舞台は幕末の会津藩です。

幕末好き新選組好きの私からすれば、会津藩新選組の上役です。

そういう理由もあって、思い入れは一入。

そこが舞台になるとなれば、これは楽しみなものだと心が躍りました。

実際放送が始まると、twitterで大興奮の大騒ぎ。

その様子を見ていた友人から、twitterで投降した雑学諸々をまとめるという意味も込めてブログを作っては?と打診され、2013年1月7日に開設したのが八重の桜考察ブログ「大河逍遥」です。

最終記事を投稿した2013年12月24日まで、約1年かけてあらゆる時間をつぎ込んで完成させたブログではありましたが、実はその時点で、私は会津未踏でした。

本当は大学の卒業旅行は単身会津若松へと、それこそ大学入学間もない頃から心に固く決めていて、そのための資金も貯めていたのですが、東日本大震災のためそれも叶わず。

それから紆余曲折を経まして、待ちに待った会津行きの機会を掴めたのが2015年5月3日。

GWの大渋滞に巻き込まれ、予定時刻よりも150分遅れて会津若松駅に降り立ち、生まれて初めて会津の土を踏み、会津の風に吹かれました。 

14:36のことでした。

Twitterのフォロワーさん達に、「みかんさんはまだ会津に着かないのか」と随分気を揉ませていたようなのですが、渋滞とあっては仕方ありません。

気が全く急かなかったかといえば嘘になりますが、私がバスの中で駆け足しても、会津に近付けるわけでもないですので(笑)。

そうかそうか、みんな渋滞を作るほど斯様に会津が好きか~、という心持でおりました。

が、そんな余裕は会津に降り立った瞬間吹き飛びました。

お昼ご飯食べてなかったせいで、空腹のあまり本能的な部分が丸出しになっていたのでしょうか。

お腹が空いてるのならまず腹ごなしをすれば良いものを、「150分遅れの飢えを癒せるのは鶴ヶ城しかない!」と神速の速さでタクシーを捕まえてホテルに荷物を放り込み、転がるようにして会津城下を駆け出しました。

地図なんていりません。

初めて訪れた場所ではありましたが、すいすい歩けます。

大河逍遥の執筆の時に、散々会津城下の地図を睨めっこしていたからというのもあるでしょうし、何より地図旅行は何度もしてました。

神明通りを越えて、北出丸大通り(旧甲賀町通り)に出たら・・・。

み、見えたー!鶴ヶ城!!!

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翼を広げた鶴のような形から「鶴ヶ城」と呼ばれるようになった彼の城ですが、感激フィルターのせいで純白が目に沁みました。

恋人に駆け寄っていくように全力疾走するのですが、途中こけるわ脇目を振らずに走りたいのにそうは行かせてくれないわ、でして。

北出丸大通り、お城からすれば目と鼻の先にあるエリアは、お城を正面に見て右手が会津藩家老内藤介右衛門信節さんのお屋敷跡、左手が会津藩家老西郷頼母近悳さんのお屋敷跡です。

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そしてそこから少しばかりお城に接近しますと、会津藩御用の茶問屋の系譜に連なる會津葵が暖簾を掲げておられます。

ここで買えます鶴ヶ城羊羹は絶品であると同時に、おそらくこの本店の場所付近は、会津戦争時に攻め寄せた薩摩軍二番砲隊長大山巌さんが右大腿部を狙撃された場所でもあります。

果たして、撃ったのはスペンサー銃を携えて籠城していた山本八重さんなのか、はてまた別の方なのか。

確証は何処にもありませんが(彼女以外にもスペンサー銃を持って籠城してた人は数人いますので)、まったくの妄想でもないでしょう。

その辺りのことは、大河逍遥にて詳しく書きましたので、こちらでは割愛。

 

・・・と、そんなことをしていて、見えているのになかなか鶴ヶ城にまで辿り着けない。 やっとこさ足を北出丸に足を踏み入れます。

北出丸は明治元年9月22日四ツ刻、降参と書かれた白旗三本が掲げられた場所でもあります。

そして先述した、八重さんがおられた場所。 ここから城内に侵入しようものなら、北出丸・帯廓・伏兵廓の三方向から敵は集中砲撃を受けることになります。

それゆえ「みなごろし丸」とも呼ばれるあそこを、会津戦争のときも薩長の兵は突破することが出来ませんでした。

もう何だか、まだ北出丸くらいしかポイントとしてはクリアしてないのに、この時点で感情の整理が全く追い付かなくてですね。

途中まだまだ色々あったんですが、すっとばしてさっさと逢いに行くことにしました。

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あまりの感激ぶりに、通りすがりの観光客の方にお写真撮りましょうか?とお声かけて頂きました。

約620キロ離れた土地から、何年も何年も想いを馳せたお城に「はじめまして」を告げた瞬間の、記念の一枚。

とてもとても、初めましてな気分ではなかったです。

逢いたい逢いたいと想いを募らせていたのに、いざ本物を目の前にすると、きゃーとかわーとか言った興奮が全部鳴りを潜めてしまって、込み上げてくる感情をどう整理していいのかも分からない、自分の心境さえ言葉に言い表せない、言葉を忘れてしまった心地がしまして。

今になって冷静に振り返れば、ああいうのをまさしく「万感の思い」というのだろうなと。

 一頻り感動したところで、今度は天守閣に入りたかったのですけれども残念ながら大行列。

鶴ヶ城のもてもてっぷりに相好を崩しながら、それでは私の登城は明日にしようと自主延期。

傍でやっていた會津十楽の市を眺め、城内をぶーらぶーら散策し、流石に空腹に耐えられなくなったので城下に再び出て行きました。

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鶴ヶ城のことは割かし知ってたと思ってましたが、実は知らないこともたくさんあったと知りました。

一番高い石垣が何処か、なんて現地に行ってみないとなかなか分からないことですしね。

思い返してみれば、鶴ヶ城への愛は溢れんばかりありますが、私の知識は幕末というごく僅か期間に限られたもの。

「蒲生時代の~」「葦名の~」の説明書きやらに触れる度に、そこから頑張って幅を広げていけよ、と言われてる気分になりました(苦笑)。

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と言ってる傍から、やっぱり目に着いて頭が働くのは幕末のことだけなのですが。

左の写真が萱野国老殉節碑。

戊辰戦争後、会津戦争責任者として、その身に全てを背負って切腹なされた方です。

切腹前、姫様から「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよまことある名は世に残れども」と歌を送られました。

家老順でいうならば、萱野さんは会津藩の四番家老。

しかし一番家老の頼母さんが追放でおらず、二番家老三番家老のお二方が戦死されていたので、彼が腹を切ることになったのです。

右の写真は、彼に歌を送った照姫様のお稲荷さん。

そして鶴ヶ城開城後、男装した八重さんも藩士とともに紛れた桜ヶ馬場蹟。

脳裏に「八重の桜」でのあのシーンこのシーンをちらつかせながら、城下に出て、まず向かったのは甲賀町口。

甲賀町口は城に入る公式の道で、会津城下には郭内と郭外を隔てる門が甲賀町口を含め16ありました(東から天寧寺町口、徒町口、三日町口、六日町口、甲賀町口、馬場町口、大町口、桂林寺口、融通寺町口、河原町口、花畑口、南町口、外讃岐口、熊野口、小田垣口、宝積寺口)。

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しかし今ではその16の内、郭門の一部を残しているのはこの甲賀町口の石垣のみです。

この甲賀町口をずっと辿って行くと、眼前に鶴ヶ城の北出丸が現れます。

慶応4年8月23日、薩長軍の侵攻をここで阻んでいたのは会津藩家老の田中土佐さん。

けれどもとうとう持ちこたえられなくなった田中さんは、六日町で防戦していた家老の神保内蔵助利孝さんと共に、五ノ町にある土屋一庵さんの家で自刃します。

その自刃場所の土屋一庵さん宅、ここかな?という目星はつけたのですが、確証はなく・・・。

八重の桜第26回にあった、「んだら、生まれ変わる時は、まだ、会津で」という土佐さんの最後の台詞を、ひたすらに胸の中で反芻させておりました。

そうしてまた涙腺が緩む。

 

なんとなくしんみりしてしまい、少し人の賑わうところへいこうと足を七日町の方へ向けます。

清水屋旅館跡は嘉永5年に吉田寅次郎吉田松陰)さんが東北遊学の際に宿泊したお宿でもあり、慶応4年に宇都宮城の戦いでつま先が吹っ飛ぶ怪我を負った土方歳三さんが療養していたお宿でもあります。

看板に載っていた土方さんのお写真、妙にほうれい線が強調されていて老けて見えました。

土方さんは療養中、ここから近藤勇さんのお墓のある丁寧寺に毎日のように参っていたようなのですが、七日町のここから丁寧寺は遠かろうということで、後に丁寧寺から近い東山温泉に宿を移しておられます。

さてさて、「枕投げ事件」が起こったのはどちらのお宿なのやら。

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会津といえば!というのも何だか変ですが、有名なのが「あいづっこ宣言」。

というより、最後の「ならぬことはならぬものです」のワンフレーズが有名なのかな。

現物(?)を拝見したのはもちろん初めてでしたが、「年上を~」の部分などは会津藩朱子学の名残を感じ取れますね。

現代では「あいづっこ宣言」、昔でいう「什の掟」ですね(什とは会津の6~9歳までの地区ごとのグループのこと)。

什の掟は以下の七か条。

 

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ

三、虚言をいふ事はなりませぬ

四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

五、弱い者をいぢめてはなりませぬ

六、戸外で物を食べてはなりませぬ

七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

 

察するに、御家門の会津松平家藩士たるもの、他の大名家から見て恥じるべき人間ではあってはいけない、というプライドのようなものはあったのかなと。

だってよく考えてみてください、これ全部守ってたら現代人が思い浮かべる「絵にかいたような武士」になりますよ。

ならぬことはならぬものです。

そんな精神で育った会津に、似たような教育法(郷中)で育った薩摩が攻めてきたんだな~、とぷらぷら考えながら、お腹の虫の音をなだめなだめ、七日町通りから少し離れます。

念願の会津若松

あれをしようあそこに行こう、というのはあまり決めてなかったのですが、現地の美味しいものを食べようというのだけは固~~く心に誓っておりました。

こづゆに始まり、田楽に馬刺しにわっぱ飯に・・・と会津は美味しい郷土料理がたくさんあります。

そんな会津でわっぱ飯を食べるのなら、ここが一番おいしいという事前情報をもとに、綾瀬はるかさんも食べに来た田事さんへ。 

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こづゆ、わっぱ飯、棒鱈の甘露煮、鰊の山椒漬、味噌田楽。

会津の郷土料理に、胃袋の中からおもてなし頂きました。

 ちなみに、こづゆの具は七種類と決まっています。

それ以外はこづゆと呼ばず、ざくざく煮と呼ぶそうです。

具も何でも七種類だったらOKなわけではなく人参、里芋、糸コンニャク、ぎんなん、豆麩、きくらげ、干し貝柱と決まってるそうで。

(あれ、ということはこれはこづゆではなく、ざくざくの方・・・?)

620kmほど離れた土地からの女ひとり旅も珍しいのか、ついお店の人と話し込み、今度は泊まっていってくださいね、とな。

あたたかいお店の人に見送られ、時計を見れば18時前。

初夏なのでまだまだ外が明るいのをいいことに、今しばらく城下を徘徊することに。

 

神明通りをてくてくと、足の向く方向は鶴ヶ城の西側エリア。

最初に見えて来ましたのは山鹿素行さんの生誕地、そして直江兼続さんのお屋敷跡です(地図)。

大石内蔵助さんのお師匠さんでもあるということや甲州軍学の関係で、山鹿さんのお名前は知名度そこそこあるのでしょうが、会津出身ということは実はそんなに知られていないのだと、後日知りました。

ちなみに赤穂城には山鹿さんの像がありますよん。

その山鹿さんがお生まれになったのが1622年、そしてその少し前、会津を治めておられた上杉景勝さんの家老直江兼続さんのお屋敷が同地にあった。

・・・ということなのですけど、かつて家老屋敷があったような物件に、浪人の子供の山鹿家が何故?と思わなくもなかったり。

後で調べてみると、山鹿家は蒲生家の重臣・町野幸和さんの邸宅に寄寓していたそうな。

それなら納得、だから表記は「誕生の地」なんですね。 

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そんなことに首を頷かせながら住宅街を歩いていると、凡そ住宅街には似つかわしい、石組みのモノが見えて来ました。

かつてこの場所にあった会津藩藩校「日新館」の、現存する唯一の遺構です。天文台ですね(地図)。

現在日新館は、場所を変えて完全復元されております。

保科正之公に仕えた名家老・田中正玄さんから数えて六代目の田中玄宰さんが、文武両道と藩士教育のために1803年に開設されました。

日本初の学校給食、また日本初のプール(水練用)など、現代の学校に普通にある「日本初」のいくつかは、実は日新館にあったりします。

東西120間、南北60間、約7200坪の広大な土地にかつてあった日本屈指の藩校は、会津戦争の際に火災で焼けてしまいました。

天文台だけが残っているのは、石造りだったからでしょうか。

会津城下に薩長が踏み込んで来た時、日新館には怪我人が収容されていました。

その来襲の報を受けて、自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の堀に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま火に巻かれて亡くなったそうです。

此処から這って行ける一番近い堀といえば、西側の堀。

無意識に足がそちらに向きましたが、神明通りに再び出てはてと思い出したことがあって、少々南下。

確かこの辺りに・・・と薄ら記憶を頼りに辿りつけたのは、大河ドラマ「八重の桜」で一躍知名度を上げました、八重さん、そして覚馬さんの生誕地です。 

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現在二か所に看板が立っておりまして、上の写真の上写真のはいろいろあった大人の事情で早まって立ってしまったもの、位置として正確なのは下写真の方です(地図)。

ということで、少し寄り道しましたが今度こそ西側の堀へ。

お城を外から眺めるに留めて、宿に帰ろうと思ってたのですけど足が勝手にふらふら~とお城の方へ(笑)。

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西出丸から、こんばんは鶴ヶ城

会津戦争の時、河原町口から城下に入った山川大蔵さん率いる彼岸獅子が、娘子隊の孝子さん達が、凌霜隊45人が、それぞれ薩長の包囲網を抜けて、ここから鶴ヶ城へ入城しました。 

「彼岸獅子を迎え入れよ!会津兵の入城だ!」

大河ドラマであったそんな台詞が、耳の奥に蘇りますね。

しかし、何故西出丸だけこんなにじゃんじゃん包囲網を突破出来たかについては、自分の中で色んな仮説を立ててはいるものの、未だにどれも決定打には欠けておりまして。

考察の余地がありますね。ガンバリマス。

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夜の鶴ヶ城は、昼の人込みが掻き消えて、程よい静けさを纏っていました。

振り放け見れば、天守の左にぼんやりと雲に隠れた月が。

三の丸からではありませんが、八重さんの「明日よりは何處の誰か眺むらんなれし御城にのこす月影」が思い出されまして。

やっと会津に来られたのだという万感の想いと、147年前に想いを馳せ過ぎて、しばし放心しておりました。

そして長い夜のお散歩を終え、お宿に戻って余韻を肴に一献。

この時点で会津滞在時間がまだ半日くらいなのに、こんなに濃厚でいいのだろうかと思わず自問したのは内緒話です。

 

みかん会津へ行く

最初に何を書こうかと迷いながらも、やっぱりこの旅の記録だけは真っ先に形にしたいと。

常々そう念頭においてる旅がございまして。

といいますのが、2015年5月に初めて訪れた会津若松へのひとり旅。

え、いま2017年ですけど?と思ったそこな御方。

私の遅筆具合&ブログに向いてない性質が、これだけでもよぉ~~く分かって頂けるかと思います。

何にせよ、そんな人間がブログやろう・・・かな?と思い立ち(何度も言いますが新年のノリ)。

最初に綴るのなら、自分の中で一番深い部分にあるあの旅のことからまず手を付けたいと。

そんな会津旅の、はじまりはじまり。