みかん会津へ行く 2
今回の会津旅は2泊3日の予定。
つまり、2日目はまるっと24時間会津に滞在出来るということでして。
いや、至極当然のことなのですが、それが「会津に」となると、もう幸せすぎてどうにかなってしまいそうな。
そんな朝から始まりました、会津2日目。
ホテルの朝食で元気に会津米とこづゆを食べ、会津ファンクラブの会員証とハイカラさん・あかべぇの1日乗車券を握り締め、八重たんを相棒にいざ往かむ。
勇んでホテル(実は大町口門跡)を出たものの、実は今回の旅の目的は「会津に行くこと」でして。
笑えるくらい、行程を練って来なかったのです。
がっつきたくなくて。
ただこの町にどうしても来たかった、それだけでした。
とはいえ、前日入城のお預けを食らった愛する鶴ヶ城天守閣には入っておきたいと思い。
登城するならするで、やっぱり一番槍つけたいと思い。
(前日入れなかった悔しさか、単に負けず嫌いなのか・・・多分どっちもです)
有言実行、一番槍つけました!
おはようございます、私の愛しい人(城)。
赤瓦が今日も素敵です。
登城開始時刻までそわそわし、登城開始になったら一目散に最上階へ。
展示物すっ飛ばした甲斐もあってか、最上階も暫く人は来ず、ひとり占めでした。
そこから小田山を眺めては「嗚呼あそこからアームストロング砲が」と思い、飯盛山を望んでは「嗚呼あそこで白虎隊が」と思い。
北を見ては甲賀口門を、西を見ては彼岸獅子や娘子隊を、やや南を見ては八重さんの生家跡を。
くるくると、ハツカネズミのように東西南北回って回って。
ふと「あのあたりが松平家墓所だよな・・・。ああああ!」と、そこで回転ストップ。
転げ落ちるように天守閣から脱出し、城内を抜け出し、バスへ飛び乗りました。
この日、実は会津松平家代々の墓所の拝殿で、会津松平家のご当主が祭主となって、歴代藩主の御霊を奉る「お花まつり」が開催されていたのです。
会津松平家のご当主が。。。
会津の殿が。。。
全力疾走する理由なんてこれで十分です。
幸い、タイミングよくバスが来て、無事に始まる前に会津松平家廟所へ到着しました。
松平家廟所には正之公の嫡子、つまり会津藩主二代から九代までが、ここに眠っておられます。
5万坪のこの規模は日本最大級のものらしいです。
熊も出ると専らの噂のこちら・・・一見すると山城に来てしまったのかと見紛うばかりです。
大自然の中に、少しぴんとした空気を感じて背筋を伸ばしながら、会津藩二世紀半の歴史に順番にご挨拶させて頂きました。
ご当主とご子息は、遠目から尊顔を拝させて頂き、会釈を傾けて頂きまして、泣きそうでした。
容保様の御血筋が、ちゃんと現代にも続いてることを己のまなこでしっかと見て、胸がいっぱいになったのに、そんな時でもちゃんとお腹は空くみたいで。
朝に会津米とこづゆでしっかり満たしたはずなのに、空腹を訴えだした自分の胃袋に苦笑いしながら、下山。
お昼は、白虎隊も食べたと言われるお秀茶屋にて味噌田楽を頂きました。
(土方さんも召し上がったそうな。療養してた東山温泉が近いので、立ち寄ったのでしょうか?)
さて、腹ごなしも終えて、次なる目的地。
・・・は、素通りは出来ませんよね。天寧寺。
新選組局長の近藤さんがこちらに眠っておられます。
看板にもある通り、誰かが京都三条河原から持ち帰った首が埋められているとも、土方さんが遺髪を埋めたとも言われるこの場所。
もしかしたら何も埋まってないかもしれませんが、土方さんが容保様に願い出で許可され、会津藩士によって建てられたこの墓は、当時の状況下(新選組が朝敵とされていた)から鑑みればこれ以上ないご供養かと存じます。
戒名の「院殿純忠誠義大居士」は容保様の書で、土方さんが建てた墓石は割れてしまったようなので現在あるのは二代目です。
同じ敷地内には萱野さん、次男の長正さん始め多くの会津藩士と、和泉守兼定さんや昨夏の早乙女貢さんも眠っておられます。
けれども一般的な知名度の差なのか、近藤さんの墓前に足を運ぶ人はお見かけしても、他の皆様には・・・。
仕方がないことではありますが、ちょっぴり寂しく思いました。
再びバスに乗車。
今度は七日町へ。
結局「なぬかまち」と読めばいいのか、「なのかまち」と読めばいいのか、どっちなんでしょうね、この地名(笑)。
地名の由来は読んで字の如く、月々7日に市が開かれていたことから来ています。
街道沿いにあったため、当時は旅籠や料理屋が軒を連ね、明治以降は会津一の繁華街だったそうな。
そんな七日町の景観を残そうと、会津若松市や七日町まちなみ協議会の皆様が尽力して下さってるお蔭で、現代にも素敵な通りとして復活しております。
古い蔵や木造建築は勿論、個人的には「レオ氏郷 南蛮館」「白木屋漆器店」「旧第四銀行会津支店」「郡山商業銀行若松支店」などの洋式建築もおすすめです。
素敵なお店や、美味しそうな食べ物に、あっちから袖ひかれ~こっちから袖ひかれ~で、寄り道の果てに到着しましたのは、阿弥陀寺。
写真に「会津東軍墓地」と書いていることからも分かります通り、会津藩士が眠ってます。
会津戦争で亡くなった会津藩士の遺骸を埋葬する事を新政府は許しませんでした。
・・・いえ、正確には、埋葬禁止令を出した史料的証拠は未だないのですが、旧会津藩士の発言に「城下に放置されていた旧藩の人々」というものがありますこと、また「萬年青」「明治日誌」の述懐から推測するに、埋葬は禁じられていたように伺えます。
(手が回らなかった訳あるまい)
そんな状況下、明治2年に阿弥陀寺と長命寺に限り埋葬は許されていたようで、阿弥陀寺には約1300の遺骸が眠り、今でも手厚く供養されています。
また、新選組三番隊組長斎藤一さん、その奥様の時尾さんも眠っておられます。
境内にある御三階(ごさんかい、おさんかい、とも)。
かつては鶴ヶ城本丸内にあった建物(小天守に相当)で、戊辰戦争で阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年に移築されて本堂とされました。
鶴ヶ城が取り壊されたのは明治7年のことですから、御三階は破却を免れた、鶴ヶ城唯一の現存建物ということになります。
の割には、外見の風化放置が目に着いたり、あと金色の葵紋が宗家紋になってたり(そこは会津葵じゃないと・・・瓦は会津葵でしたが)。
もうちょっと、何とかならないかなぁ、と苦く思うばかりです。
外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。
1階部分初公開だとか・・・!と、心が躍ったのですが、どうやら過去に何度も公開されているようで。
あれ、騙された?
まあ、私の中では初公開ということにしておきます。
1階部分の展示やら何やらは、ガイドの方に懇切丁寧に説明して頂きました。
(嘘です。半分質問攻めにしました。でも快くお付き合いくださいまして、本当にありがとうございます)
左上から、ぐるっと時計回りに。
・アームストロング砲の砲弾(手前のたけのこの里みたいな形の方)。勿論ホンモノ。つまり、約150年ほど前のあの時、鶴ヶ城に撃ち込まれたもののひとつ。
・天井の傷みが目立つ
・芝五郎さんの筆
・容保様の筆
・八重さんの筆
・鶴ヶ城の門の一部
・数年前に出てきたらしい、唯一の容保様のカラー肖像画。晩年の容保様を描いたものですが、容保様がOK出すまで描かされたとか、描かされてないとか(笑)。
・天神川の戦いの絵。明治初期に描かれたものらしく、視点から察するに薩長サイドからの様子でしょう。
その後、ガイドの方と延々と話をさせて頂いたのですが。
阿弥陀寺は、新選組ファンが斎藤さんのお墓だけ参って、会津の方々の碑には目もくれないで帰って行くことが多々あるのだそうです。
何故彼が会津に眠ってるのか。
阿弥陀寺はどういう場所で、会津の方々の碑は何故斎藤さんのお墓のように独立してないのか。
斎藤さんが好きなのはいいとして、あの場では彼は(変な言い方にはなりますが)主ではなく脇だということ。
その辺りをもう少し・・・というお話を伺って、全くだなと思いました。
強要は勿論出来ないのですが。
偉そうで本当にすみません。
そしてこちらが、もうひとつ埋葬を許された場所、長命寺に残る会津戦争時の弾痕。
こちらには145人の方が眠っておられます。
修理さんの奥様、お雪さんが自害したとも伝わるこの寺。
名前を刻むことを許されず、ただ「戰死墓」とのみ刻まれた小さな墓碑。
その無念や屈辱は如何ばかりか。
ただただ、手を合わせることしか出来ないこの頃であります。合掌。
まだ外は明るかったですが、色々と散策したり考えたりしたら疲れたので一旦宿に戻ろうとしたところ。何とフォロワーさんのフミーさんが会津に来られてるということで。
どうやら私がツイートで会津会津五月蠅いので、呼び寄せてしまったみたいです。すみません(笑)。
折角ですからと、鶴ヶ城にて合流後、しばし立ち話に付き合わせてしまいました。
その帰り道に立ち寄りました、小澤蝋燭店さん(地図)。
八重の桜の11月頃だったでしょうか。
OPで会津絵蝋燭が映る時があったのを覚えておられる方もおられるでしょうが、あれがこのお店の作業の様子です。
凄く素敵なお店で、私も迷いに迷って迷って、自分の好きな桔梗の描かれたものを購入しました。
夜は、お宿で色んな事(阿弥陀寺のことが主)を頭の中でぐるぐるさせながら、愛してやまない末廣をちびり。
日本酒は不得手なのですが、末廣は本当に美味しいと思える日本酒です。
その土地に来ないと、見えて来ないものがたくさんありますね。
寧ろ、そっちの方が多いな。
そんな風に思いながら、会津24時間を色んな意味で満喫したのでした。