みかん松山へ行く 1
おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける。(夏目漱石『坊ちゃん』)
というわけで、伊予の国に降り立ち、まずは道後温泉へ。
『坊ちゃん』を読むたびに触れて来たあの場所で、レッツ朝風呂です。
千と千尋の神隠しのモデルとも言われる本館・・・でもジブリは否定していたような?
耐震工事のため、9年間入れなくなるとの情報を得、慌ててやって来ました。
(その後、話は一転二転として部分閉館という処置に変わったようですが、この時の私はそんなこと露知らず)
こういったものにお尻を叩かれないと、なかなか旅立てないって駄目ですね。
旅人レベルはまだまだ1のようです。
レベルアップの道程は長い。
勿論、実際の秋山兄弟やのぼさんも入ったのだろうな・・・などと想像しながら、早朝だったためか贅沢にも湯船独り占め状態。
湯上りのお供に坊ちゃん団子を摘まみ、その後坊ちゃんの間を見学。
冒頭から坊ちゃん坊ちゃんと連呼してますが、実は夏目漱石の坊ちゃんは、読んだことのある方ならご存知かと思いますが、どうしてなかなか結構松山に対して手酷く書かれた作品だったりします。
そんな酷評の羅列の中で、唯一坊ちゃん(≒作者の漱石自身でしょう)がいいと思ったもの、それが道後温泉です。
丁度、坊ちゃん列車が来ていました。
(慌てて飛び乗ったため、写真は後々町中で撮影したもの)
停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。(夏目漱石『坊っちゃん』)
マッチ箱に揺られ揺られ、大街道駅で降りて向かった先は秋山兄弟生誕地。
昭和20年の松山空襲で、建物自体は燃えてしまいましたが、有志の方々によって平成17年に復元されたものです。
建物自体は現代のものですが、復元に当たっては戦前の写真や子孫の方々などの記憶を元にしたようで。
中には秋山兄弟の書簡や関係写真など、資料が展示されてます。
好古さんは1924年から、亡くなる1930年までこの地に住み、北予中学校に通勤していました。
「一以貫之」「人事有憂楽山光無古今」「質實剛健」
全て好古さんの筆です。
どれも素晴らしく好古さんのお人柄を現していますね。
真之さんのものがひとつもないのが、少し寂しい気もしましたが・・・「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」とかあったら滾るのですが・・・そういえばあれの原本って何処にあるんだろ?
敷地内にある秋山兄弟の銅像。
兄弟が目と目を合わせる形で配置されています。
好古さんは、墓は仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立しないように、と質素を貫いて逝去されたのですが・・・銅像、建てられてますね(笑)。
当初の予定では立像だったようですが、「騎兵の秋山」と謳われた好古さんを馬から下ろすことは如何なものか、という意見が多くあったようで、このように騎馬像になりました。
これが先代好古像のお話で、現在我々が見ているのは二代目。
といいますのも、初代の騎馬像は湯築城内にあったのですが、戦中の金属供給で鋳潰されてしまいました。
しかし初代のレプリカが県立松山北高等学校に保存されていたので、それを参考にして二代目が生まれたという次第です。
真之さんの銅像に関しましては、防衛省にあるものについてはエピソードがあるのですが、こちらものもは好古さんのようなエピソードが見当たらず。
と、真之さんを見つめていたら、その後ろにある建物にちょっと目が行きまして。
札を見てみれば常磐会の文字が。
ガイドの方「これって、あの常磐会ですか?」とお聞きすると、「はい、あの常磐会です」とな。
常磐会は、坂の上の雲にも出て来た、旧松山藩士の師弟を育成する団体のことです。
のぼさんも給費生でしたが、文学方面にお熱になりすぎて、削られてしまったのですよね。
明治当時、常磐会は果てはお大臣博士になるような子弟のために給費金を援助しているのであって、給費生が詩人歌人あるいは小説家になることなどとんでもないことだったので。
その辺りのお話は、またいずれ。