みかん京都を歩く 1
先日京都に行きました時、帰り際に京の冬の旅(51回)のパンフレットを見つけまして。
今年は大政奉還150年という節目も相俟って、テーマは「大政奉還150年記念」。
幕末と聞いて、私の食指が動かないわけがない!
というわけで、後日改めて行ってまいりました、寒い寒い冬の京都。
まずは妙法院から。
平生は非公開で、かつすぐそばに三十三間堂やら養源院やら豊国神社といった有名どころがあるせいか、一般的な知名度としてはそんなに高くないのではないでしょうか。
そんな妙法院、13年ぶりの公開だそうです。
門扉が開いてるのを初めて見ました・・・。
入っていいんだよね?とびくびくしながら、そろっと門を潜ります。
空気の冷たさが肌に突き刺さりましたが、それでも春はゆっくりゆっくりこちらに来てくれてるんだな、と思った一枚。
屋内の写真撮影は禁止でしたが、外は何処でもどうぞということでした。
方広寺や蓮華王院や新日吉神社もかつては妙法院の管轄下だったとか(蓮華王院は今でも妙法院所属らしい)。
歴代門主の門主はほとんど皇族ゆかりの方で、そのためやんごとなき方々の御位牌やらもここにあるのだとか。
最近ですと(といっても幕末年間のお話し。京都の人の“最近”の尺度おかしい・・・)有栖川宮熾仁親王の弟君・威仁親王が門主相続の予定だったのですが、明治維新のあれこれでその話は無かったことになりましたが、その御縁で宮の御位牌はこちらにあるのだとか。
恥ずかしながら、名前と場所くらいしか知らなかったので、見ること聞くこと全部お勉強になります。
まず受付を終えて通されるのが国宝の庫裏。
1595年(文禄4)頃の建築で、本瓦葺入母屋造という安土桃山時代の建築物のようで、土間・板の間・座敷と分かれてます。
天井を見上げれば露出した小屋組の梁の、まあまあ組み方の細かいこと細かいこと。
一番高いところで約60尺あるそうで、外から見た時にちょっと屋根から飛び出してた部分(下写真参考)は、江戸時代は物見櫓として活用されていたそうです。
土間には厨がありまして、豊臣秀吉が千僧供養を行った際に建てられたと説明を受けたのですが、この台所の規模で千人分賄えるか?と小首を傾げていたら、当時のままではなく、縮小されているらしいです。
庫裏から廊下を渡って奥に行きますと、伏見城の内庭より移したと伝わる大書院庭園があります。
といっても、こちらもそのままの規模で移したわけではなく、縮小したようですが。
池の形が瓢箪になってて、ああ豊臣風だな~と。
池に架かってる橋は、石橋ではなく楠の化石のようで、上賀茂神社にも同じのがありますね。
その他、太閤さん関連の資料は宝物館に大量に展示されておりますが、そこに筆を割きたいわけではなくて。。。
宸殿で特別展示されているという、「七卿落図」が、妙法院に於ける最大の目的でした。
七卿落ちというのは・・・の前に、文久3年(1863)に起こった八月十八日の政変の説明から。
いわゆる中川宮・会津・薩摩結託による孝明天皇承認のもとに行われた政治クーデターなのですが、これによって三条実美、三条西季知、正四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉ら(正確に言えば急進派公卿20名余り)は孝明天皇より参内停止・他人面会禁止の勅が下されました。
また国事参政・国事寄人の役職は廃止、議奏は更迭。
何かずらずら書いてますが、まあ要は急進派が朝廷より一掃されたわけです。
朝廷から一掃されると政治にも携われなくなりますから、現代風に言い換えると「政界追放」になるのでしょうか。
このような理由で朝廷に居られなくなった7人は、鷹司邸へ行き、そこでまたごちゃっと揉めて(割愛)、その後にやって来たのが妙法院の宸殿です。
(外から見た宸殿)
そしてここで集まった7人と、同じく御所の警固を解かれて追われる形となった長州藩兵らは、今後の事を話し合います。
摩耶山で義兵を挙げるべきだ!金剛山で義兵を挙げるべきだ!という意見もあったそうですが、結局長州は「徒に戦没して不忠不義の汚名を泉下に留めんよりは、一度防長に退きて再挙を図るにしかず」と西下の途につくことに。
この時の様子を題材にしたのが「七卿落図」。
大正10年10月に、七卿落ち50周年を記念として制作されたそうです(田中有美・筆)。
え、記念なの?と、全力で説明書きに突っ込みました。
彼らにとって、都落ちさせられたこの経験って、すんごい苦い思い出だと思ってたんですけど、記念なのか・・・そうか・・・。
こんな感じで無駄にキリッとしてました(画力足りず、お目汚しですみません)。
こちらの三条実美は土方久元が書いたそうです・・・待て待て、あなたも一緒に長州に行った人じゃない・・・。
ちなみに、展示されているのは七卿の内三条実美のものだけですが、学生ガイドさん曰くちゃんと7人分肖像画があるんだそうです。
いつか7人並ぶ日が来たら良いですね、それこそ何かの記念日に(苦笑)。
外にある「七卿碑」。
案内板より「(前略)後の維新を期して、西国へ向け出京したという「七卿落ち」の記念碑で有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正1(1912)年9月に建立されたものです。毎年10月には、いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられています。(以下省略)」。
やっぱり七卿落ちは苦い思い出じゃなくて記念なのか(笑)。
もう妙法院でのあれこれ、全部そこに掻っ攫われて行った気がします。
七卿落ちは記念!
これ、テストに出ますよ!(笑)