読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

みかん京都を歩く 2

続きまして、黒谷さんこと金戒光明寺へ。

少し前まで京都市内に住んでたので、移動は自転車でスイスイだったのですが、引っ越した今となっては市バスを活用するしかなく。

観光客や修学旅行生と車中芋洗いになりながらの移動になりました(泣)。

f:id:aoimonn:20170210071514j:image

京都守護職の任に就いた会津藩が、本陣を置いたのがこの金戒光明寺

最初京都守護職を拝命したとき、会津は二条城に本陣を置いてそこに入ろうとしたのですが、それだと二条城在番と同じことになるからと、当分の間は所司代千本屋敷を宛がわれていました。

しかし所司代屋敷は100人の足軽とその家族のために営まれたものなので、会津の隊列1000人を収容出来るわけもなく。

そこで幕府が、人が入らないなら御所近くに土地を買えば良いと、急遽都に会津藩邸を建てることになったのです。

けれども容保様らの入京まで時間がなく、そういうわけでそれが建つまでは金戒光明寺が本陣となったのです。 

(以上は大河逍遥のこちらの記事より引用) 

ちなみに、今回初めて知ったことなのですが、金戒光明寺には当初芸州浅野家が入る予定だったそうです。

芸州浅野家の初代藩主浅野長晟の正室・振姫(德川家康三女)の菩提寺がこちらという御縁から付き合いがあり、浅野家からは寺領百石も寄進され、安永年間の火事の時は多くの寄進をしたそうで。

要は江戸時代まるっと、なが~いお付き合いがあったわけですな。

なのでそこに会津が入ると聞いて強く反発したようですが、幕府の裁定によって会津が入ることに。

これぞ御上のひと声・・・浅野家は面白くなかったでしょうが。

そんなやりとりが、展示されていた「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」から学べました。

少し順番が前後しましたが、まずは本堂へ。

この寺に「光明寺」と名前がついた由来や、その後「金戒光明寺」になったこと、御本尊の説明などをふむふむと聞いて、奥の大方丈へ。

本殿から大方丈へ入って、一番手前の部屋が謁見の間。

新選組が容保様と謁見した場所です。

残念ながら当時の方丈は昭和初期に消失しており、現在のものは同じ間取りで再建されたものですが、この距離感で容保様と謁見されてたのかなぁ、なんてつい想像してしまいます。

筆頭局長も来てますよね、絶対。

謁見の間の隣が松の間、そして角が虎の間です。

虎の間は襖の開閉によって見え方が変わる面白いお部屋でして、客人がここで待たされたとガイドさんが仰ってたので、つまりあの人やこの人も虎と睨めっこしてたのかなぁ、とまた想像してしまいます。

松の間は史料の展示がされてまして、パンフレットにも掲載されている容保様の具足「残英(散り残った、しなびた花のこと)」や長刀の刀(銘越前住武蔵守藤原兼中)、「文久三年御上洛御用掛冊子江戸日本橋南壱町目須原屋兵衛殿」、14代将軍の情ら鵜に際しての幕府職制一覧、 山本八重子「明日乃夜は~」と「いくとせか~」の直筆和歌、「黒阿弥陀」、容保様和歌、「志無虚邪行必正直游 居有常必就有徳  源容保 」、前述しました「文久戌年以来会津家寄宿二付公辺往復并寄宿中諸般筆記」など。

展示されているものの密度が、私的に大変危険でした、松の間。

這いつくばるようにして一生懸命メモの筆を走らせますが、寒さで手が悴んでまともな字が書けないのが悔やまれました。

いま読み返しても、自分の字なのに拾えるのはほんの一部という(笑)。

ガイドの方に「ずっとおるなぁ」→「熱心やなぁ」→「まだおんのかい」と思われるくらい松の間にじっくりと滞在し、その後紫雲の庭を散策。

行先は、亀さんが教えてくれるから~とガイドの方に見送られ、行けど行けども亀なんていませんが・・・?と、ふと足元に視線をやれば・・・いました、亀。

f:id:aoimonn:20170210071545j:image 

その後道に点々と亀が埋め込まれていたので、ガイドの方の言ってたことに嘘はなかった!

f:id:aoimonn:20170210071611j:image

お庭から見た大方丈。

大満喫したところで、大方丈を後にします。

せっかくなのでと西翁院を見学後、境内をとことこと移動。

f:id:aoimonn:20170210071630j:image

こちら、最近すっかり有名になったアフロの仏様。

お名前は「五劫思惟阿弥陀仏像」と言います。

長い長い時間だたひたすら思惟をこらし修行した結果、髪が伸びっぱなしになってしまったらしく、決してアフロではないのですよ~(笑)。

こちらの仏様の脇の階段をとことこと上がり、左に折れて最奥へ行きますと、会津墓地があります。

f:id:aoimonn:20170210071645j:image

先程の松の間の展示に、境内の墓地を借りるため文久3年(1863)2月に白銀50枚で墓地を契約した、という旨の書状がありました。

書状の「墓地」とは、きっとこの会津墓地を指すのでしょう。

文久2(1862)年から慶応3(1867)年の5年間にこの地で亡くなった会津藩士237名と、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名の慰霊碑など、352名がここに祀られています。

金戒光明寺へ来たら、必ずご挨拶に伺います。

最近、会津の方から伺った話なのですが、幕末から明治のあの時、西雲院(会津墓地の管理をして下さってる)の住職は、「都を守った恩義に報いるのは当然であり、仏になった者に罪など無い」 と、ここを死守してくださったようです。

今も西雲院の方の管理のお蔭で、会津墓地の平和は守られております。

ありがとうございます。本当にありがとうございます。