みかん京都を歩く 3

そこそこ間が空いてしまいました。

ぼんやりしている間に梅が綻び、桜が咲いて、そして散りました(苦笑)。

はんなブログ運営サイドはまめなのか、ひと月ブログの更新がないと「そろそろ書かない?」とやんわり催促してくれることを初めて知りました。

面倒くさい、とひょっこり芽を出しそうな感情をえいやと摘み取って、引き続き京都あるきの記事をば。

何処まで書いたっけな、って思ってる時点でもう色々と駄目ですね。

 

さて。

お昼下がりの後半戦。

バスを乗り継いでやってきたのは西新屋敷、通称「島原」。

現在花街としての面影を残すのは、「大門」と、そして区画内で唯一お茶屋営業を続けている「輪違屋」、かつて揚屋だった「角屋」(現在は角屋もてなしの文化美術館として営業)の三つだけです。

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後は住宅街ですが、所々に古い日本家屋がありますので(ただし築年数は不明)、三か所以外に全く雰囲気がないと言い切るのも・・・いや、私も最初に大門潜った時は、飛び込んできた住宅街に何とも言えぬ気持になりはしましたが・・・。

ちなみに昭和52年までは西門も残ってたようですが、トラックが突っ込んで壊れたようです。何てことだ・・・。

当時の区画としては、東大門から西は千本通りまでの東西194.9m、北は中央市場青果市場の南側道路から、南は正面通り両一筋目の道路までの南北242.1m、面積47200㎡。

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現在の京都の地図で切り抜くと、このエリアですな。

揚屋やお茶屋、島原と吉原の違いなども折角なので書きたいのですが、そんなことしてたらいつまでも記事が終わりませんので、それはいずれ別稿にて。

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今日は角屋へお邪魔します。

こうやって上手に風景切り取ると、花街時代の面影がしのばれますね。

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島原に来る度にこの碑をみて、いや久坂さんだけが密議で使ってたわけじゃないでしょ、と心の中でこっそり突っ込んでいました。

しかし、角屋で展示されていた資料のラインナップを見て、わざわざこんな石碑が建てられた理由が分かりました。

ええ、めっちゃ久坂さんの書状もろもろの資料だらけでした。

幕末関係だと、ほとんど久坂さん関連のものだったように記憶しています。

彼については勉強不足な部分が多く、どれだけの史料が現存しているのか恥ずかしながら存じ上げませんが、大半はあそこにあるんじゃないかしら?(笑)

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いつもは中戸口に掛けられている角屋の蔓三蔦紋、今日は特別公開期間のためか、表玄関に掛かってました。

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潜って石畳を右に曲がると玄関(客人用)、正面に中戸口。

見学ルートは中戸口からです、おじゃまします。

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写真左上は、表玄関潜ってすぐに所にある新選組の刀傷です。

まじまじと見てましたが・・・刀の入射角(と言ったらいいのかしら?)が、これ相当腰入ってないとつかない傷じゃないかしら、と素人目には見えました。

ほろ酔い気分で適当に刃物振り回して出来た傷という訳ではないように思えましたが、はてさて。

邪推ついでに、「刀傷」と案内されていたのは此方の一ヶ所だけでしたが、他にもよく見たらこれは刀傷では?という箇所が数か所ありまして。

やー、まさか同一組織による犯行じゃないよね~あはは~、なとどほろ苦く笑っておりました。

角屋もさすがに建物が古いので、昔のままの柱の数だけでは建物が支えきれなくなってきてしまってるらしく、平成になって新しい柱を何本か足したようです。

(右下の写真の、手前の太いのが従来からの柱、奥の細いのが後から足された柱)

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写真左上、帳簿場が玄関口すぐにあるのは、監視の役を担ってるからだそうで。

写真右上、箪笥階段。

二階には青貝の間や扇の間がありますが、今回の公開は一階部分のみ。

写真右下、玄関口でお客様から預かった刀は、一旦刀掛けへ、その後写真左下の刀箪笥へ。

幕末のあの人やこの人の御腰のものも、ここに納まってたのでしょうね。

勿論、新選組の皆様も。

そんな新選組関係の資料が一点、展示されてました。

写真禁止でしたので、全文メモしました(転写ミスあったらすみません)。

今般諸払い皆済に相成り候上は、以来、当局と貸し売り等、決して相成らず候。万一強いて申し掛け候ものこれあるにおいては、早々届け出で申すべきもの也。

寅 九月    新選組 調役 印

寅というのは慶応二年。

調役というのは諸士調役兼監察という呼称の方がなじみがありますかな。

この時の諸士調役兼監察って誰が該当しますかねぇ?

篠原さん、吉村さん、島田さん、浅野さん、山崎さん・・・まだいますよね、うーむむ。

それはさておき、今までツケで飲めてたのがツケ禁止になったので、それで怒った隊士が刀振り回したんじゃないのか、というのがガイドの人の話でした。

しかし、先程も書きましたがあの刀傷の入射角は素人目に見るに・・・まあいっか、と視線を次に移すと、何かありましたよ。

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西郷隆盛が行水に使用されたるもの」。

思わず説明書きを二度見しましたが、決して読み間違えではなかったようです。

維新の立役者レベルのお人になると、こんなものまでお宝もの扱いされるのね~、何て思ってましたが、説明書きを読むと凄い盥だったことが判明。

以下説明書きを転写。

昭和20年戦況の悪化に伴い、京都市内も空襲による延焼を防止するため主要な道路や鉄道から50メートル以内の建造物が取り壊しの対象になった。角屋も西側に山陰線が隣接しているため、取り壊しの運命にあったが、京都市の担当者の方々に角屋の建物を視察していただき、明治維新の元勲らも使われた遺標であるとのご理解を頂き、取り壊しはしばらく延期となった。そしてまもなく終戦を迎え、角屋は解体を免れた。角屋の危機を救ったのはまさしく西郷南洲翁のこの盥といっても過言ではありません。

つまり角屋を救った盥というわけですね。

盥が角屋を救ったのですね。

そうか、角屋は盥に救われていたのか・・・などと謎の感慨深さに包まれながら、廊下を進んで奥の松の間へ。

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こちらが松の間命名の元となった臥龍松。

芹沢さんが切り結んだと言われてる松は先代で、こちらは二代目のようです。

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新撰組組長・芹沢鴨の最後の宴が催されたのがこの松の間、四十三畳もあるそうです。(大正年間に焼失し、現在の広間は再建された物です)

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芹沢さんも、こんな感じの目線で最後の晩餐となったあの日の宴を過ごしていたのでしょうか。

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お帰りはこちらの玄関から・・・と言いたいところですが、お帰りはまだ中戸口からです。

おじゃましました。

刀傷はつけないで、お利口さんに帰ります~。