みかん会津へ行く 1
2011年6月22日、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の制作発表が行われました。
主人公は山本八重、物語の舞台は幕末の会津藩です。
幕末好き新選組好きの私からすれば、会津藩は新選組の上役です。
そういう理由もあって、思い入れは一入。
そこが舞台になるとなれば、これは楽しみなものだと心が躍りました。
実際放送が始まると、twitterで大興奮の大騒ぎ。
その様子を見ていた友人から、twitterで投降した雑学諸々をまとめるという意味も込めてブログを作っては?と打診され、2013年1月7日に開設したのが八重の桜考察ブログ「大河逍遥」です。
最終記事を投稿した2013年12月24日まで、約1年かけてあらゆる時間をつぎ込んで完成させたブログではありましたが、実はその時点で、私は会津未踏でした。
本当は大学の卒業旅行は単身会津若松へと、それこそ大学入学間もない頃から心に固く決めていて、そのための資金も貯めていたのですが、東日本大震災のためそれも叶わず。
それから紆余曲折を経まして、待ちに待った会津行きの機会を掴めたのが2015年5月3日。
GWの大渋滞に巻き込まれ、予定時刻よりも150分遅れて会津若松駅に降り立ち、生まれて初めて会津の土を踏み、会津の風に吹かれました。
14:36のことでした。
Twitterのフォロワーさん達に、「みかんさんはまだ会津に着かないのか」と随分気を揉ませていたようなのですが、渋滞とあっては仕方ありません。
気が全く急かなかったかといえば嘘になりますが、私がバスの中で駆け足しても、会津に近付けるわけでもないですので(笑)。
そうかそうか、みんな渋滞を作るほど斯様に会津が好きか~、という心持でおりました。
が、そんな余裕は会津に降り立った瞬間吹き飛びました。
お昼ご飯食べてなかったせいで、空腹のあまり本能的な部分が丸出しになっていたのでしょうか。
お腹が空いてるのならまず腹ごなしをすれば良いものを、「150分遅れの飢えを癒せるのは鶴ヶ城しかない!」と神速の速さでタクシーを捕まえてホテルに荷物を放り込み、転がるようにして会津城下を駆け出しました。
地図なんていりません。
初めて訪れた場所ではありましたが、すいすい歩けます。
大河逍遥の執筆の時に、散々会津城下の地図を睨めっこしていたからというのもあるでしょうし、何より地図旅行は何度もしてました。
神明通りを越えて、北出丸大通り(旧甲賀町通り)に出たら・・・。
み、見えたー!鶴ヶ城!!!
翼を広げた鶴のような形から「鶴ヶ城」と呼ばれるようになった彼の城ですが、感激フィルターのせいで純白が目に沁みました。
恋人に駆け寄っていくように全力疾走するのですが、途中こけるわ脇目を振らずに走りたいのにそうは行かせてくれないわ、でして。
北出丸大通り、お城からすれば目と鼻の先にあるエリアは、お城を正面に見て右手が会津藩家老内藤介右衛門信節さんのお屋敷跡、左手が会津藩家老西郷頼母近悳さんのお屋敷跡です。
そしてそこから少しばかりお城に接近しますと、会津藩御用の茶問屋の系譜に連なる會津葵が暖簾を掲げておられます。
ここで買えます鶴ヶ城羊羹は絶品であると同時に、おそらくこの本店の場所付近は、会津戦争時に攻め寄せた薩摩軍二番砲隊長大山巌さんが右大腿部を狙撃された場所でもあります。
果たして、撃ったのはスペンサー銃を携えて籠城していた山本八重さんなのか、はてまた別の方なのか。
確証は何処にもありませんが(彼女以外にもスペンサー銃を持って籠城してた人は数人いますので)、まったくの妄想でもないでしょう。
その辺りのことは、大河逍遥にて詳しく書きましたので、こちらでは割愛。
・・・と、そんなことをしていて、見えているのになかなか鶴ヶ城にまで辿り着けない。 やっとこさ足を北出丸に足を踏み入れます。
北出丸は明治元年9月22日四ツ刻、降参と書かれた白旗三本が掲げられた場所でもあります。
そして先述した、八重さんがおられた場所。 ここから城内に侵入しようものなら、北出丸・帯廓・伏兵廓の三方向から敵は集中砲撃を受けることになります。
それゆえ「みなごろし丸」とも呼ばれるあそこを、会津戦争のときも薩長の兵は突破することが出来ませんでした。
もう何だか、まだ北出丸くらいしかポイントとしてはクリアしてないのに、この時点で感情の整理が全く追い付かなくてですね。
途中まだまだ色々あったんですが、すっとばしてさっさと逢いに行くことにしました。
あまりの感激ぶりに、通りすがりの観光客の方にお写真撮りましょうか?とお声かけて頂きました。
約620キロ離れた土地から、何年も何年も想いを馳せたお城に「はじめまして」を告げた瞬間の、記念の一枚。
とてもとても、初めましてな気分ではなかったです。
逢いたい逢いたいと想いを募らせていたのに、いざ本物を目の前にすると、きゃーとかわーとか言った興奮が全部鳴りを潜めてしまって、込み上げてくる感情をどう整理していいのかも分からない、自分の心境さえ言葉に言い表せない、言葉を忘れてしまった心地がしまして。
今になって冷静に振り返れば、ああいうのをまさしく「万感の思い」というのだろうなと。
一頻り感動したところで、今度は天守閣に入りたかったのですけれども残念ながら大行列。
鶴ヶ城のもてもてっぷりに相好を崩しながら、それでは私の登城は明日にしようと自主延期。
傍でやっていた會津十楽の市を眺め、城内をぶーらぶーら散策し、流石に空腹に耐えられなくなったので城下に再び出て行きました。
鶴ヶ城のことは割かし知ってたと思ってましたが、実は知らないこともたくさんあったと知りました。
一番高い石垣が何処か、なんて現地に行ってみないとなかなか分からないことですしね。
思い返してみれば、鶴ヶ城への愛は溢れんばかりありますが、私の知識は幕末というごく僅か期間に限られたもの。
「蒲生時代の~」「葦名の~」の説明書きやらに触れる度に、そこから頑張って幅を広げていけよ、と言われてる気分になりました(苦笑)。
と言ってる傍から、やっぱり目に着いて頭が働くのは幕末のことだけなのですが。
左の写真が萱野国老殉節碑。
戊辰戦争後、会津の戦争責任者として、その身に全てを背負って切腹なされた方です。
切腹前、姫様から「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよまことある名は世に残れども」と歌を送られました。
家老順でいうならば、萱野さんは会津藩の四番家老。
しかし一番家老の頼母さんが追放でおらず、二番家老三番家老のお二方が戦死されていたので、彼が腹を切ることになったのです。
右の写真は、彼に歌を送った照姫様のお稲荷さん。
そして鶴ヶ城開城後、男装した八重さんも藩士とともに紛れた桜ヶ馬場蹟。
脳裏に「八重の桜」でのあのシーンこのシーンをちらつかせながら、城下に出て、まず向かったのは甲賀町口。
甲賀町口は城に入る公式の道で、会津城下には郭内と郭外を隔てる門が甲賀町口を含め16ありました(東から天寧寺町口、徒町口、三日町口、六日町口、甲賀町口、馬場町口、大町口、桂林寺口、融通寺町口、河原町口、花畑口、南町口、外讃岐口、熊野口、小田垣口、宝積寺口)。
しかし今ではその16の内、郭門の一部を残しているのはこの甲賀町口の石垣のみです。
この甲賀町口をずっと辿って行くと、眼前に鶴ヶ城の北出丸が現れます。
慶応4年8月23日、薩長軍の侵攻をここで阻んでいたのは会津藩家老の田中土佐さん。
けれどもとうとう持ちこたえられなくなった田中さんは、六日町で防戦していた家老の神保内蔵助利孝さんと共に、五ノ町にある土屋一庵さんの家で自刃します。
その自刃場所の土屋一庵さん宅、ここかな?という目星はつけたのですが、確証はなく・・・。
八重の桜第26回にあった、「んだら、生まれ変わる時は、まだ、会津で」という土佐さんの最後の台詞を、ひたすらに胸の中で反芻させておりました。
そうしてまた涙腺が緩む。
なんとなくしんみりしてしまい、少し人の賑わうところへいこうと足を七日町の方へ向けます。
清水屋旅館跡は嘉永5年に吉田寅次郎(吉田松陰)さんが東北遊学の際に宿泊したお宿でもあり、慶応4年に宇都宮城の戦いでつま先が吹っ飛ぶ怪我を負った土方歳三さんが療養していたお宿でもあります。
看板に載っていた土方さんのお写真、妙にほうれい線が強調されていて老けて見えました。
土方さんは療養中、ここから近藤勇さんのお墓のある丁寧寺に毎日のように参っていたようなのですが、七日町のここから丁寧寺は遠かろうということで、後に丁寧寺から近い東山温泉に宿を移しておられます。
さてさて、「枕投げ事件」が起こったのはどちらのお宿なのやら。
会津といえば!というのも何だか変ですが、有名なのが「あいづっこ宣言」。
というより、最後の「ならぬことはならぬものです」のワンフレーズが有名なのかな。
現物(?)を拝見したのはもちろん初めてでしたが、「年上を~」の部分などは会津藩の朱子学の名残を感じ取れますね。
現代では「あいづっこ宣言」、昔でいう「什の掟」ですね(什とは会津の6~9歳までの地区ごとのグループのこと)。
什の掟は以下の七か条。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
察するに、御家門の会津松平家の藩士たるもの、他の大名家から見て恥じるべき人間ではあってはいけない、というプライドのようなものはあったのかなと。
だってよく考えてみてください、これ全部守ってたら現代人が思い浮かべる「絵にかいたような武士」になりますよ。
ならぬことはならぬものです。
そんな精神で育った会津に、似たような教育法(郷中)で育った薩摩が攻めてきたんだな~、とぷらぷら考えながら、お腹の虫の音をなだめなだめ、七日町通りから少し離れます。
念願の会津若松。
あれをしようあそこに行こう、というのはあまり決めてなかったのですが、現地の美味しいものを食べようというのだけは固~~く心に誓っておりました。
こづゆに始まり、田楽に馬刺しにわっぱ飯に・・・と会津は美味しい郷土料理がたくさんあります。
そんな会津でわっぱ飯を食べるのなら、ここが一番おいしいという事前情報をもとに、綾瀬はるかさんも食べに来た田事さんへ。
こづゆ、わっぱ飯、棒鱈の甘露煮、鰊の山椒漬、味噌田楽。
会津の郷土料理に、胃袋の中からおもてなし頂きました。
ちなみに、こづゆの具は七種類と決まっています。
それ以外はこづゆと呼ばず、ざくざく煮と呼ぶそうです。
具も何でも七種類だったらOKなわけではなく人参、里芋、糸コンニャク、ぎんなん、豆麩、きくらげ、干し貝柱と決まってるそうで。
(あれ、ということはこれはこづゆではなく、ざくざくの方・・・?)
620kmほど離れた土地からの女ひとり旅も珍しいのか、ついお店の人と話し込み、今度は泊まっていってくださいね、とな。
あたたかいお店の人に見送られ、時計を見れば18時前。
初夏なのでまだまだ外が明るいのをいいことに、今しばらく城下を徘徊することに。
神明通りをてくてくと、足の向く方向は鶴ヶ城の西側エリア。
最初に見えて来ましたのは山鹿素行さんの生誕地、そして直江兼続さんのお屋敷跡です(地図)。
大石内蔵助さんのお師匠さんでもあるということや甲州流軍学の関係で、山鹿さんのお名前は知名度そこそこあるのでしょうが、会津出身ということは実はそんなに知られていないのだと、後日知りました。
ちなみに赤穂城には山鹿さんの像がありますよん。
その山鹿さんがお生まれになったのが1622年、そしてその少し前、会津を治めておられた上杉景勝さんの家老直江兼続さんのお屋敷が同地にあった。
・・・ということなのですけど、かつて家老屋敷があったような物件に、浪人の子供の山鹿家が何故?と思わなくもなかったり。
後で調べてみると、山鹿家は蒲生家の重臣・町野幸和さんの邸宅に寄寓していたそうな。
それなら納得、だから表記は「誕生の地」なんですね。
そんなことに首を頷かせながら住宅街を歩いていると、凡そ住宅街には似つかわしい、石組みのモノが見えて来ました。
かつてこの場所にあった会津藩藩校「日新館」の、現存する唯一の遺構です。天文台ですね(地図)。
現在日新館は、場所を変えて完全復元されております。
保科正之公に仕えた名家老・田中正玄さんから数えて六代目の田中玄宰さんが、文武両道と藩士教育のために1803年に開設されました。
日本初の学校給食、また日本初のプール(水練用)など、現代の学校に普通にある「日本初」のいくつかは、実は日新館にあったりします。
東西120間、南北60間、約7200坪の広大な土地にかつてあった日本屈指の藩校は、会津戦争の際に火災で焼けてしまいました。
天文台だけが残っているのは、石造りだったからでしょうか。
会津城下に薩長が踏み込んで来た時、日新館には怪我人が収容されていました。
その来襲の報を受けて、自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の堀に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま火に巻かれて亡くなったそうです。
此処から這って行ける一番近い堀といえば、西側の堀。
無意識に足がそちらに向きましたが、神明通りに再び出てはてと思い出したことがあって、少々南下。
確かこの辺りに・・・と薄ら記憶を頼りに辿りつけたのは、大河ドラマ「八重の桜」で一躍知名度を上げました、八重さん、そして覚馬さんの生誕地です。
現在二か所に看板が立っておりまして、上の写真の上写真のはいろいろあった大人の事情で早まって立ってしまったもの、位置として正確なのは下写真の方です(地図)。
ということで、少し寄り道しましたが今度こそ西側の堀へ。
お城を外から眺めるに留めて、宿に帰ろうと思ってたのですけど足が勝手にふらふら~とお城の方へ(笑)。
西出丸から、こんばんは鶴ヶ城。
会津戦争の時、河原町口から城下に入った山川大蔵さん率いる彼岸獅子が、娘子隊の孝子さん達が、凌霜隊45人が、それぞれ薩長の包囲網を抜けて、ここから鶴ヶ城へ入城しました。
「彼岸獅子を迎え入れよ!会津兵の入城だ!」
大河ドラマであったそんな台詞が、耳の奥に蘇りますね。
しかし、何故西出丸だけこんなにじゃんじゃん包囲網を突破出来たかについては、自分の中で色んな仮説を立ててはいるものの、未だにどれも決定打には欠けておりまして。
考察の余地がありますね。ガンバリマス。
夜の鶴ヶ城は、昼の人込みが掻き消えて、程よい静けさを纏っていました。
振り放け見れば、天守の左にぼんやりと雲に隠れた月が。
三の丸からではありませんが、八重さんの「明日よりは何處の誰か眺むらんなれし御城にのこす月影」が思い出されまして。
やっと会津に来られたのだという万感の想いと、147年前に想いを馳せ過ぎて、しばし放心しておりました。
そして長い夜のお散歩を終え、お宿に戻って余韻を肴に一献。
この時点で会津滞在時間がまだ半日くらいなのに、こんなに濃厚でいいのだろうかと思わず自問したのは内緒話です。