みかん台南へ行く
2020年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
といっておきながら、3年近くブログを放置しておりました。
その間、年が明けたどころか元号が変わりました。
ここで真面目な人なら「令和の目標はブログをまめに書くことです」とか、「今年の目標はもっとブログを更新することです」とこの場で誓うのでしょう。
でもいいんですよ、私のブログはこんなペースで。
私が許します、私のブログですもの。
そんなスタンスのわたくし、昨年末の12月20~22日の間、友人様2人と一緒に台南へ行って参りました。
同じ国なのに台北とはまた雰囲気が違う、それはもうもう楽しいばかりが散りばめられた、笑いの絶えない旅でした。
さて、そんな台南。
に行くにあたって、「台南ならここに行きたいです!!!」と旅程組む段階でリクエストさせて頂いていた場所があります。
その名も台南神社。
日本統治時代の台南にあった神社です。
ええそうです、「あった」神社です、現存しておりません。
そもそも、何故そんな現存もしてない海外の神社に私が行きたかったのか。
実は、台南神社の御祭神は北白川宮能久親王なんです。
明治28年、北白川宮能久親王が彼の地で亡くなられ、北白川宮殿下御遺跡所となったのが台南神社の前身です。
奥羽列藩同盟が提出した、松平容保様の伏罪と寛典を望む嘆願書を却下した総督府に以下のように述べられたお言葉は本当に痺れますよね・・・!
薩摩は先帝の遺訓に背き、幼帝を欺瞞し、摂関幕府を廃し、表に王政復古をとなえながら陰で私欲逆威を逞しうしている。しかも百方工作をし、幕府及び忠良十余藩に冤罪を負わせ、軍を起こした。ために世情騒然、道義は墜ち、大逆無道、千古これに比すものはない。よって匡正の任を同盟諸藩に託す。宜しく大義を明らかにし、兇逆の主魁を殄し、幼帝の憂悩を解き、下は百姓の塗炭の苦しみを救うべし。
むつかしい言葉が並んでますが、超意訳すると「月にかわっておしおきよ!」って仰ってるんです。
最も、大義名分のための盟主であって、実際に戦うのは奥州諸藩ではありますが。
戊辰戦争後、リアル舞姫前日譚でしょうか?なことをやったりと、何かと波乱万丈な人生を送られた北白川宮能久親王ですが、そんな御仁の人生の幕が下りた場所。
やっぱり幕末好きなら、スルー出来ない!
(行程に組み込むの快諾していただき、かつお付き合いくださった同行の友人様には感謝しかありません)
・・・というわけで、出発前から古地図と現在の地図を睨めっこし、このあたりだろうとあたりをつけ、向かった最終日。
ざっくりとしたエリアだけで言いますと、中西区にある孔子廟のすぐお隣、忠義國小学校のところとその道路一本挟んで向かいが該当区域です。
忠義國小学校の図書館が、台南神社時代の社務所(兼休憩場所)だったということですが、流石に小学校の建物の配置までは調べられません。
つまり、小学校の中に入るしかない。
いや、普通に正面から入りましたけどね。
当然ながら門のところにいた警備員さんに呼び止められ、通行人のオジサマを交えて「台南神社を探してるんです」というこちらの意思が伝わり、害意がないと判断されたのか入れて頂けました。
オジサマに「行きたかったのここでしょ?」と孔子廟に案内されて、微妙に伝わってなかったなぁ・・・と思いつつ、孔子廟の脇から小学校に入れちゃいました。
途中渡った石橋、欄干に成功橋と書いておりまして、日本統治時代の現存だったらしいです。
さて、何はともあれ小学校に入ったものの、当然ながら学校なので建物の配置図とかあるわけもなく。
まず台南神社跡探しの何がハードルが高いって、
・現地にそもそも存在知ってる人がほぼ皆無
・現地に行ってる人もほとんどいないので、ネットにも書籍にもあまり情報があがっていない
・現存していない
でしょうか。
日本ならそれでも何とかなる・なんとか出来る部分がありますが、如何せん異国。
こういう時、語学が出来たらどれだけ心強かろうとしみじみ思いました。
しかし嘆いていても仕方がない・・・と思い小学校内できょろきょろしていたその時。
私の嗅覚が幕末の匂いをキャッチしました。
数少ない資料の書籍に載っていた建物と、同じ建物らしきものを発見!
台南神社の社務所(事務所)だったもの。
看板にはたいへんありがたいことに日本語の説明も。
遂にこぎ着けた!私は今、台南神社のエリアにいるんだ!と感無量で大はしゃぎしておりました。
もう少し散策したかったですが、付き合わせてる手前もあったのと、最終日でしたので時間の制約があり、ここのみで撤収。
後々・・・今日このブログを書くにあたって、頭の中の考えやあれこれを整理したのですが、振り返ってみると、台南神社の本殿は林百貨店の裏手あたりにあって、私が行ったのは本当に隅っこだったんだろうな、と。
さっき上で成功橋について触れましたが、書籍とかに載ってる古写真の成功橋は「台南神社外苑」という説明が添えられてるんです(成功橋の場所は■)。
その奥にずっと真っすぐ、参道と思しきものが伸びてます。
で、図書館は社務所(場所は■)だったということは、日本の神社にあるルート的に考えて、紫の丸のあたりが台南神社の本殿だったんじゃないかなぁ、と。
外苑→社務所を通り過ぎて最奥に本殿、がお決まりパターンですので。
まま、それで、本殿があったところが北白川宮能久親王の亡くなった場所では?なんていうのも少し考えてしまったり。
日本の史跡のように、誰それ終焉の地なんて石碑は建ってませんので憶測ではありますが、本殿の位置を定めるときに一番それがしっくりこないかなと。
行った満足感よりも、行った後に振り返った時の疑問の方が大きいですが、現地に行かねば生まれなかった疑問ですので、個人的には良しとします。
今度台南に行くときは、自説・台南神社本殿推測地を歩いてみようと思います。
放置してたブログを急に開けて、台南神社のことを真っ先に書こうと思ったのかについてですが、文中に書きましたように行ってる人がほとんどいないからです。
それを、自慢したいのではなく、今後誰かが行くときに、行こうと思ったときに、少しでもこの記事でお役に立てればなと。
そんなことを思った次第でございます、はい。
本殿の場所の下りについては、自説と妄想練りこんでますので取り扱い要注意です(笑)。
かしこ。