みかん松山へ行く 2

f:id:aoimonn:20170128220541j:image

松山や秋より高き天主閣

正岡子規明治24年『寒山落木』)

というわけで、やって来ました松山城

ロープウェイかリフトで上れるのですが、待ち時間ゼロなリフトを選択。

高所恐怖症ではないのですが、中途半端の高さに自分の足が浮いてる状態がとても苦手なので、空中散歩ならぬ苦中散歩でした・・・。

6分の苦行に耐え、長者ヶ平に到着。

そこから天守入口まで10分ほどとのことでしたが、天守に飛びつく前に松山城来たら、登り石垣見なきゃ!ということで、観光客の波からひとり逸れててくてく。

寸暇を置かず、見えて参りました登り石垣!

f:id:aoimonn:20170128220554j:image

f:id:aoimonn:20170128220607j:image

f:id:aoimonn:20170128220616j:image

洲本城の、破却された中でも頑張って生き残ってる石垣も良いですが、このようにほぼ完全な姿(南側だけですが)で残っているのも素晴らしいです。

これで洲本・彦根・松山、それから竹田城の登り石垣を見たので・・・残るは海の向こう、倭城かしら。

そんなことを思いながら、ここで気付いたのですが、あれ、何か私道を下って来てない?とな。

慌てて地図を開くと、そろそろ二の丸付近ということが判明。

ロープウェイで苦行に耐えながらも上って来た意味なし!(涙)

まあ、素晴らしい登り石垣に会えたからいいよ、と肩を少し落としながら、黒門口登城ルートから本丸を目指します。

f:id:aoimonn:20170128220633j:image

てくてく歩いていると、道から覗きこめた二の丸庭園に蜜柑の樹が植わってることを確認。

流石柑橘王国のお城!

f:id:aoimonn:20170128220644j:image

鬱蒼とした森の中を、江戸時代の皆様の気分になってえっちらほっちら。

山城ほどではありませんが、このルートを行くなら靴は少し考えた方がいいかもですね。

そのまま10分ほどの森林散歩を抜けると、石垣のセレモニーを受けます。

f:id:aoimonn:20170128220654j:image

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

(中略)

四国は伊予松山に、三人の男がいた。

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたっては勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦をたて、それを実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。

もうひとりは、俳句短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れて、その中興の祖となった、俳人正岡子規である。

彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。

のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」冒頭より)

 この景色を見た時、ドラマの冒頭が脳裏に自動再生されました。

ちょっといたところに、ドラマのポスターの撮影スポットがあったのですが、ひとりじゃ撮れないので断念。

f:id:aoimonn:20170128220708j:image

城好きさんに言ったら呆れられそうな駆け足速度で、松山城を見て来ました。

本当に「見た」だけで終わってるので、お城については再訪決定です。

 

そして子規庵へ。

f:id:aoimonn:20170129122851j:image

子規庵から出て来た方が、あまりにもあらゆる角度からのぼさんを撮りまくってるおなごにドン引きしたのか、よければ一緒に撮りましょうか?と声をかけて下さったので、のぼさんの「旅だち」と同じポーズでツーショット。

夢みたいです。

子規堂はのぼさんが17歳まで生活した家を復元したものです(三代目)。

小さいながらも展示物の数は100点ほどと、大変充実しております。

のぼさんの勉強書斎や、「発句経比喩品」などなど、根岸の子規庵よりも個人的にはこっちの方が良いかもです。

埋髪搭や正岡家のお墓にもご挨拶に伺い、さて次は・・・と思ったら、とんでもないものが。

 f:id:aoimonn:20170129122550j:image

控えめに申し上げると、晒し首かと思いました
もう少し何とかならなかったのか・・・(笑)。

 

気を取り直して、次へ。

まだまだ続きます、のぼさん巡り。

再び、伊予鉄道に乗り込み大街道で下車。

一般観光客なら、この辺りでしたら萬翠荘坂の上の雲ミュージアムに行くのでしょうが、私のお目当ては別にありまして。

しかし、探せど探せど目的のものは見つからず。

いえ、建物自体がもうないので見つけにくいのは分かってましたが、こうも何もなかったようになってるものなのか?と諦めようとしていたら、お掃除のおじさまが声をかけて下さいました。

「何探してるの?」

愚陀仏庵です

「愚陀仏庵ピンポイントで探してここに来る人に初めて会った(笑)」

ディープな子だな、と笑われながら、案内して頂きました。

f:id:aoimonn:20170129122559j:image

2010年の台風で壊れてしまった愚陀仏庵。

漱石の下宿先で、のぼさんの乗っ取り先(笑)。

跡地すら立ち入り禁止で近付けません。

看板すらないので、え、どこ?ってなりますが、写真中央の白い看板の上あたりにあったそうです。

再建の方向には動いてるみたいで、でも建物建てるのに後ろの山の木の根が地中深くまで張ってるから、まずはそれを撤去しなきゃ始まらないとか。

レプリカが正岡子規記念博物館にあるよ、と教えて頂き、それならば行ってきます!とおじさまに見送られ、今度は正岡子規記念博物館へ。

f:id:aoimonn:20170129122620j:image

ありました、レプリカ。

f:id:aoimonn:20170129134352j:image

館内唯一撮影OKです。

靴脱いで中にも上がれちゃうので、のぼさん気分が楽しめます。

他にも「病牀六尺」の原稿があったり、ワ―とかキャーとか、久し振りに展示物で興奮しすぎて疲れました。

閉館時間になって出てくる頃には、立って寝れるくらいの疲労感に襲われておりましたが、帰りの船まで時間があるのですぐお隣の湯築城へ。

f:id:aoimonn:20170129122629j:image

f:id:aoimonn:20170129122640j:imagef:id:aoimonn:20170129122648j:image

土塁やら堀やら、すっかり現代風に整備(というか整形)されてしまってるなー、という印象が(汗)。

本当に小一時間お散歩するだけで終わってしまった感が・・・。

そして後で知ったのですが、100名城だという。

本当にセレクトラインが謎ですね、100名城。

 

職場から、突如休みを与えられて急遽決めた弾丸松山旅。

のぼさん充実を優先させるあまり、疎かになってしまった部分が多いので、今度は松山城を堪能しに来ようと思います。

坂の上の雲」ゆかりの地だからか、大学時分の自分を頭の中で連れ回しながらの、ひとり旅なんですけどひとり旅じゃなかった気がする、不思議な旅でした。 

f:id:aoimonn:20170129122700j:image

みかん松山へ行く 1

おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける。(夏目漱石『坊ちゃん』)

 というわけで、伊予の国に降り立ち、まずは道後温泉へ。

『坊ちゃん』を読むたびに触れて来たあの場所で、レッツ朝風呂です。

千と千尋の神隠しのモデルとも言われる本館・・・でもジブリは否定していたような?

耐震工事のため、9年間入れなくなるとの情報を得、慌ててやって来ました。

 f:id:aoimonn:20170128214725j:image

(その後、話は一転二転として部分閉館という処置に変わったようですが、この時の私はそんなこと露知らず)

こういったものにお尻を叩かれないと、なかなか旅立てないって駄目ですね。

旅人レベルはまだまだ1のようです。

レベルアップの道程は長い。

 

坂の上の雲」でも勿論ロケ地になった道後温泉

勿論、実際の秋山兄弟やのぼさんも入ったのだろうな・・・などと想像しながら、早朝だったためか贅沢にも湯船独り占め状態。

湯上りのお供に坊ちゃん団子を摘まみ、その後坊ちゃんの間を見学。

f:id:aoimonn:20170128212610j:image f:id:aoimonn:20170128212619j:plain

冒頭から坊ちゃん坊ちゃんと連呼してますが、実は夏目漱石の坊ちゃんは、読んだことのある方ならご存知かと思いますが、どうしてなかなか結構松山に対して手酷く書かれた作品だったりします。

そんな酷評の羅列の中で、唯一坊ちゃん(≒作者の漱石自身でしょう)がいいと思ったもの、それが道後温泉です。

 

朝風呂を堪能した後は、伊予鉄道に乗って松山市内へ。

丁度、坊ちゃん列車が来ていました。

(慌てて飛び乗ったため、写真は後々町中で撮影したもの)

f:id:aoimonn:20170129111705j:image

停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。(夏目漱石坊っちゃん』) 

マッチ箱に揺られ揺られ、大街道駅で降りて向かった先は秋山兄弟生誕地

昭和20年の松山空襲で、建物自体は燃えてしまいましたが、有志の方々によって平成17年に復元されたものです。

建物自体は現代のものですが、復元に当たっては戦前の写真や子孫の方々などの記憶を元にしたようで。

中には秋山兄弟の書簡や関係写真など、資料が展示されてます。

好古さんは1924年から、亡くなる1930年までこの地に住み、北予中学校に通勤していました。

f:id:aoimonn:20170128214736j:image

「一以貫之」「人事有憂楽山光無古今」「質實剛健」

全て好古さんの筆です。

どれも素晴らしく好古さんのお人柄を現していますね。

真之さんのものがひとつもないのが、少し寂しい気もしましたが・・・「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」とかあったら滾るのですが・・・そういえばあれの原本って何処にあるんだろ?

f:id:aoimonn:20170128214744j:image

敷地内にある秋山兄弟の銅像

兄弟が目と目を合わせる形で配置されています。

好古さんは、墓は仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立しないように、と質素を貫いて逝去されたのですが・・・銅像、建てられてますね(笑)。

当初の予定では立像だったようですが、「騎兵の秋山」と謳われた好古さんを馬から下ろすことは如何なものか、という意見が多くあったようで、このように騎馬像になりました。

これが先代好古像のお話で、現在我々が見ているのは二代目。

といいますのも、初代の騎馬像は湯築城内にあったのですが、戦中の金属供給で鋳潰されてしまいました。

しかし初代のレプリカが県立松山北高等学校に保存されていたので、それを参考にして二代目が生まれたという次第です。

真之さんの銅像に関しましては、防衛省にあるものについてはエピソードがあるのですが、こちらものもは好古さんのようなエピソードが見当たらず。

と、真之さんを見つめていたら、その後ろにある建物にちょっと目が行きまして。

札を見てみれば常磐会の文字が。

ガイドの方「これって、あの常磐会ですか?」とお聞きすると、「はい、あの常磐会です」とな。

f:id:aoimonn:20170128214751j:image

常磐会は、坂の上の雲にも出て来た、旧松山藩士の師弟を育成する団体のことです。

のぼさんも給費生でしたが、文学方面にお熱になりすぎて、削られてしまったのですよね。

明治当時、常磐会は果てはお大臣博士になるような子弟のために給費金を援助しているのであって、給費生が詩人歌人あるいは小説家になることなどとんでもないことだったので。

その辺りのお話は、またいずれ。

 

 

みかん松山へ行く

運命の出会いを信じますか?

と書き出せば、此奴変なものに引っかかってんじゃないだろな、と心配されそうですが、違います。念のため(笑)。

 

大学一回生の頃、卒業論文新渡戸稲造の『Bushido: The Soul of Japan』をやる!と燃えておりました。

しかし三回生の春、いざゼミに入って卒論を本格的に着手、となった時のことです。

某青い看板の書店にて、平積みになっていたとある文庫本に出会いました。

本の名前は『坂の上の雲』。

明治初期から日清・日露戦争を経て近代国家になろうとしている日本を 描いた、司馬遼太郎の作品です。

当時、スペシャルドラマとして映像化されると決まったこの本は、その宣伝文句を乗せた帯を巻かれ、其処彼処の書店に並べられていました。

幕末は大好きな私ですが、明治に入るとからっきし駄目で、西南戦争くらいまでは何とか最低限の知識はあるけど・・・、な状態でして。

平たく言えば、幕末以降の歴史に興味もなければ、興味がないので知ろうともしませんでした。

簡単に言えば明治時代レベル0な状態。

ついでに言えば、経験値積む予定0な状態。

しかし。

まさかのとさか。

人生とはいつ何時なにが起こるか分からんもので。

(だからおもしろいのですが)

奇怪な物言いに聞こえるかもしれませんが、「喚ばれ」ました。

平積みになってる、『坂の上の雲』に。

 

そのまま、後は早いのなんの。

一気に文庫八巻を買い、抱き抱えながら帰宅し、11日で読破しました。

あれだけやる気を燃やしていた『Bushido: The Soul of Japan』は何処へやら。

長年頭の中でいちゃついて来た新渡戸稲造は何処へやら。

坂の上の雲』を買った時、多分自分の何かのスイッチがぽちっと入って、今まで起動していなかった部分が動き始めたのだと。

まあ、何でもいいです。

取り敢えず、喚ばれて、そして出会いました。

そこからは尻軽なもので、2年想い続けていた新渡戸稲造から、あっさり『坂の上の雲』へ乗り換え。

斯くのような次第で、『坂の上の雲』で卒論を書くことにしました。

中でもテーマに絞ったのが、正岡子規

なかなかに難産で(難産でない卒論などないのでしょうが)、唸りながら書いて、苦しみながら書いて、脳髄これでもかと絞って絞って・・・。

いやしかし、六尺の病牀に縛られ続けたのぼさんのことを覚え場このくらいの苦しみなんのそのー!と己を励まし・・・。

(ついでに就職超氷河期に凍え死に)

 卒論を書き上げた時には、人生で一番丁寧に付き合った歴史上の人物は正岡子規です!と言い切れるようになりました。

それは良いとして、物語の始まったあの場所に行けていないなと。

前ぶりが大変長くなりましたが、そんな私が瀬戸の波を越え越え、伊予の港へ降り立ったのは2016年4月のこと。

松山旅の、はじまりはじまり。

 

みかん会津へ行く 3

始まりあるものには終わりもあるのが世の常でして。

カッコいいこと言ってますが、単に会津旅が終わってしまう悲壮感に駆られていただけです。

会津最後の1日。

帰りたくないよ~帰りたくないよ~と嘆きながら、朝からホテルのこづゆを6杯たらいあげ。

やっぱり、行程練ってないので、今日をどう過ごそうかと考えた結果。

今度会津に来る時は、絶対誰かと一緒でしょうから、誰かが一緒だと遠慮して出来ないようなコトをしよう!という結論に至りました。

となれば、飯盛山も滝沢本陣も日新館もまた今度。

手作り体験をしようと、鶴ヶ城会館で起き上がり小法師を作りました。

赤べこや絵蝋燭や蒔絵やら唐人凧やら、色んな手作り体験が会津では出来ますが、自分仕様のこれが欲しかったので。

f:id:aoimonn:20170108090731j:plain

起伏があるので、意外に顔を描くのが難しかったです。

生まれたてほやほやのこの子を抱え、鶴ヶ城天守閣に朝の挨拶をした後は、廊下橋から向こうのエリアへ。

f:id:aoimonn:20170108091013j:plain

三の丸雑穀蔵はこの辺りでしょうか。

八重さんが開城前、簪で「あすの夜は何国の誰かながむらむなれにし御城に残す月かげ」の歌を刻んだとも伝わるこの場所。

大河効果なのか綾瀬はるかさんのパネルがどどーんとありました。

最終日ということもあって、時間が限られているので駆け足気味で次へ。

・・・と、行きたいのに、そうはさせてくれない会津トラップ。

発見してしまったのは、秋月悌次郎さんの「北越潜行」の碑。

f:id:aoimonn:20170108091548j:plain

行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉

治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟

聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠

恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城

思之思之夕達晨 憂満胸臆涙沾巾

風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

(書き起こし間違ってたらすみません)

秋月さんは、鶴ヶ城開城後、謹慎中だったにも拘らず変装して謹慎所から抜け出し、昌平坂学問所で同窓だった長州藩士・奥平謙輔さんに会いに行きました。

 その目的はふたつ。

会津藩への善処嘆願と、藩の将来を託すに足る少年(山川健次郎・小川亮)を預かって欲しいという嘆願でした。

奥平さんはその頼みを聞き入れ、ふたりを書生として引き取りました。

嘆願を受け入れられた、その帰りに、雪の束松峠で詠まれたのが「北越潜行」です。

会津戦争間もない当時の状況から察するに、一長州藩士に過ぎない人物が、会津に手を差し伸べる行為は、上から睨まれたら一溜りもない行為だったでしょう。

会津と長州、色んなことが現在に亘ってまでも言われていますが、いがみ合うばかりの面だけでなく、こういう一面も歴史の一部として広く知られて行ったらなと思います。

f:id:aoimonn:20170108093404j:plain

私はこう考えますが、どうでしょうか、と振ってみたものの、大河主人公はお口をへの字にしておられました。

そうそう、桜といえば。

今となっては桜が多い鶴ヶ城ですが、会津藩の頃は桜ヶ馬場以外にはほとんど桜はなかったそうです。

言われてみれば、お城って軍事要塞ですものね。

その点から鑑みると、愛でるくらいしか出来ない桜よりは、実を付けるものとか役立つものを植えるのは至極当然なわけでして。

明治期、鶴ヶ城の管理と整備を任されていた遠藤十次郎さんの尽力が、今日の桜で埋もれんばかりの鶴ヶ城に繋がったんだとか。

後日、Twitterでのやりとりで会津の方から教えて頂いたことなのですが、東日本大震災の後は、桜満開の鶴ヶ城に人気はなく、ただただ桜が寂しそうだったそうです。

GWのせいか、駐車場が満車で人も多かったこの時からは想像も出来ないことでしたが、十次郎さんが整備して桜を植えた鶴ヶ城に、また沢山の人が訪れて下さってることを、部外者ながら大変喜ばしく感じました。

 

その後、フォロワーさんの和泉と落ち合うため、城から脱出。

再び東山方面へ向かいますが、その途中鶴ヶ城の外側の防衛ラインの土塁(天寧寺町土塁)を発見。

f:id:aoimonn:20170108095123j:plain

予想以上にしっかり残ってました(地図)。

写真だと伝わりにくいですが、奥までずずず~っと土塁が続いてます。

しかし、初夏とはいえ天気に恵まれているせいか、興奮しすぎなのか、会津は暑かったです。

東北って涼しいイメージだったんですけどね。

ということで、会津武家屋敷の土産店にてこんなものを調達。

f:id:aoimonn:20170108095133j:plain

アイスキャンディーならぬ、あいずキャンディー。

思わず「上手い!」と膝を叩いてしまいたくなるギャグですね。

勿論、会津産の材料で出来ております。

そうこうしていると、無事に市内の混雑を潜り抜けて来てくれた和泉と合流。

お昼ご飯に、ソースかつ丼を頂きました。

会津ソースかつ丼の起源は様々言われていますが、ただひとつ確かなのは、ソースかつ丼にキャベツを入れたのは会津が初めて、ということ。

 f:id:aoimonn:20170108101920j:image

美味しかったのですが、あまりの量に逆兵糧攻めされました。

これを頂く前に、あれこれ摘まんでたので、今度はお腹を空かしてから臨むことにします。

そして、楽しい時間はあっという間に。

とうとう、会津の地を離れる時間がやって参りました。

f:id:aoimonn:20170108101337j:plain

誰も振り返してくれる人はいないのに、会津若松駅の駅舎に向かって全力で手を振っておりました。

また来ます。

また逢いに来ます。

いつも想ってましたが、これからもずっと想ってます。

再会の日まで待て暫し。

斯くのような形で、私の会津旅は幕を閉じたのでした。

みかん会津へ行く 2

今回の会津旅は2泊3日の予定。

つまり、2日目はまるっと24時間会津に滞在出来るということでして。

いや、至極当然のことなのですが、それが「会津に」となると、もう幸せすぎてどうにかなってしまいそうな。

そんな朝から始まりました、会津2日目。

ホテルの朝食で元気に会津米とこづゆを食べ、会津ファンクラブの会員証とハイカラさん・あかべぇの1日乗車券を握り締め、八重たんを相棒にいざ往かむ。

f:id:aoimonn:20170107212310j:plain

勇んでホテル(実は大町口門跡)を出たものの、実は今回の旅の目的は「会津に行くこと」でして。

笑えるくらい、行程を練って来なかったのです。

がっつきたくなくて。

ただこの町にどうしても来たかった、それだけでした。

とはいえ、前日入城のお預けを食らった愛する鶴ヶ城天守閣には入っておきたいと思い。

登城するならするで、やっぱり一番槍つけたいと思い。

(前日入れなかった悔しさか、単に負けず嫌いなのか・・・多分どっちもです) f:id:aoimonn:20170107214652j:image

有言実行、一番槍つけました!

おはようございます、私の愛しい人(城)。

赤瓦が今日も素敵です。

登城開始時刻までそわそわし、登城開始になったら一目散に最上階へ。

f:id:aoimonn:20170107212315j:plain

展示物すっ飛ばした甲斐もあってか、最上階も暫く人は来ず、ひとり占めでした。

そこから小田山を眺めては「嗚呼あそこからアームストロング砲が」と思い、飯盛山を望んでは「嗚呼あそこで白虎隊が」と思い。

北を見ては甲賀口門を、西を見ては彼岸獅子や娘子隊を、やや南を見ては八重さんの生家跡を。

くるくると、ハツカネズミのように東西南北回って回って。

ふと「あのあたりが松平家墓所だよな・・・。ああああ!」と、そこで回転ストップ。

転げ落ちるように天守閣から脱出し、城内を抜け出し、バスへ飛び乗りました。

この日、実は会津松平家代々の墓所の拝殿で、会津松平家のご当主が祭主となって、歴代藩主の御霊を奉る「お花まつり」が開催されていたのです。

会津松平家のご当主が。。。

会津の殿が。。。

全力疾走する理由なんてこれで十分です。

幸い、タイミングよくバスが来て、無事に始まる前に会津松平家廟所へ到着しました。

f:id:aoimonn:20170107214615j:image

松平家廟所には正之公の嫡子、つまり会津藩主二代から九代までが、ここに眠っておられます。

5万坪のこの規模は日本最大級のものらしいです。

熊も出ると専らの噂のこちら・・・一見すると山城に来てしまったのかと見紛うばかりです。

大自然の中に、少しぴんとした空気を感じて背筋を伸ばしながら、会津藩二世紀半の歴史に順番にご挨拶させて頂きました。

ご当主とご子息は、遠目から尊顔を拝させて頂き、会釈を傾けて頂きまして、泣きそうでした。

容保様の御血筋が、ちゃんと現代にも続いてることを己のまなこでしっかと見て、胸がいっぱいになったのに、そんな時でもちゃんとお腹は空くみたいで。

朝に会津米とこづゆでしっかり満たしたはずなのに、空腹を訴えだした自分の胃袋に苦笑いしながら、下山。

f:id:aoimonn:20170107222527j:plain

お昼は、白虎隊も食べたと言われるお秀茶屋にて味噌田楽を頂きました。

(土方さんも召し上がったそうな。療養してた東山温泉が近いので、立ち寄ったのでしょうか?)

 

さて、腹ごなしも終えて、次なる目的地。

・・・は、素通りは出来ませんよね。天寧寺。

f:id:aoimonn:20170107223127j:plain

新選組局長の近藤さんがこちらに眠っておられます。

看板にもある通り、誰かが京都三条河原から持ち帰った首が埋められているとも、土方さんが遺髪を埋めたとも言われるこの場所。

もしかしたら何も埋まってないかもしれませんが、土方さんが容保様に願い出で許可され、会津藩士によって建てられたこの墓は、当時の状況下(新選組が朝敵とされていた)から鑑みればこれ以上ないご供養かと存じます。

戒名の「院殿純忠誠義大居士」は容保様の書で、土方さんが建てた墓石は割れてしまったようなので現在あるのは二代目です。 

同じ敷地内には萱野さん、次男の長正さん始め多くの会津藩士と、和泉守兼定さんや昨夏の早乙女貢さんも眠っておられます。

けれども一般的な知名度の差なのか、近藤さんの墓前に足を運ぶ人はお見かけしても、他の皆様には・・・。

 仕方がないことではありますが、ちょっぴり寂しく思いました。

 

再びバスに乗車。

今度は七日町へ。

結局「なぬかまち」と読めばいいのか、「なのかまち」と読めばいいのか、どっちなんでしょうね、この地名(笑)。

地名の由来は読んで字の如く、月々7日に市が開かれていたことから来ています。

街道沿いにあったため、当時は旅籠や料理屋が軒を連ね、明治以降は会津一の繁華街だったそうな。

そんな七日町の景観を残そうと、会津若松市や七日町まちなみ協議会の皆様が尽力して下さってるお蔭で、現代にも素敵な通りとして復活しております。

古い蔵や木造建築は勿論、個人的には「レオ氏郷 南蛮館」「白木屋漆器店」「旧第四銀行会津支店」「郡山商業銀行若松支店」などの洋式建築もおすすめです。

素敵なお店や、美味しそうな食べ物に、あっちから袖ひかれ~こっちから袖ひかれ~で、寄り道の果てに到着しましたのは、阿弥陀寺

f:id:aoimonn:20170107214630j:image

写真に「会津東軍墓地」と書いていることからも分かります通り、会津藩士が眠ってます。

会津戦争で亡くなった会津藩士の遺骸を埋葬する事を新政府は許しませんでした。

・・・いえ、正確には、埋葬禁止令を出した史料的証拠は未だないのですが、旧会津藩士の発言に「城下に放置されていた旧藩の人々」というものがありますこと、また「萬年青」「明治日誌」の述懐から推測するに、埋葬は禁じられていたように伺えます。

(手が回らなかった訳あるまい)

そんな状況下、明治2年に阿弥陀寺長命寺に限り埋葬は許されていたようで、阿弥陀寺には約1300の遺骸が眠り、今でも手厚く供養されています。

また、新選組三番隊組長斎藤一さん、その奥様の時尾さんも眠っておられます。

f:id:aoimonn:20170107214635j:image

境内にある御三階(ごさんかい、おさんかい、とも)。 

かつては鶴ヶ城本丸内にあった建物(小天守に相当)で、戊辰戦争阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年に移築されて本堂とされました。

鶴ヶ城が取り壊されたのは明治7年のことですから、御三階は破却を免れた、鶴ヶ城唯一の現存建物ということになります。

の割には、外見の風化放置が目に着いたり、あと金色の葵紋が宗家紋になってたり(そこは会津葵じゃないと・・・瓦は会津葵でしたが)。

もうちょっと、何とかならないかなぁ、と苦く思うばかりです。

外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。

1階部分初公開だとか・・・!と、心が躍ったのですが、どうやら過去に何度も公開されているようで。

あれ、騙された?

まあ、私の中では初公開ということにしておきます。

1階部分の展示やら何やらは、ガイドの方に懇切丁寧に説明して頂きました。

(嘘です。半分質問攻めにしました。でも快くお付き合いくださいまして、本当にありがとうございます)

f:id:aoimonn:20170107214621j:image

左上から、ぐるっと時計回りに。

・アームストロング砲の砲弾(手前のたけのこの里みたいな形の方)。勿論ホンモノ。つまり、約150年ほど前のあの時、鶴ヶ城に撃ち込まれたもののひとつ。

・天井の傷みが目立つ

・芝五郎さんの筆

・容保様の筆

・八重さんの筆

鶴ヶ城の門の一部

・数年前に出てきたらしい、唯一の容保様のカラー肖像画。晩年の容保様を描いたものですが、容保様がOK出すまで描かされたとか、描かされてないとか(笑)。

・天神川の戦いの絵。明治初期に描かれたものらしく、視点から察するに薩長サイドからの様子でしょう。

 その後、ガイドの方と延々と話をさせて頂いたのですが。

阿弥陀寺は、新選組ファンが斎藤さんのお墓だけ参って、会津の方々の碑には目もくれないで帰って行くことが多々あるのだそうです。

何故彼が会津に眠ってるのか。

阿弥陀寺はどういう場所で、会津の方々の碑は何故斎藤さんのお墓のように独立してないのか。

斎藤さんが好きなのはいいとして、あの場では彼は(変な言い方にはなりますが)主ではなく脇だということ。

その辺りをもう少し・・・というお話を伺って、全くだなと思いました。

強要は勿論出来ないのですが。

偉そうで本当にすみません。

そしてこちらが、もうひとつ埋葬を許された場所、長命寺に残る会津戦争時の弾痕。

f:id:aoimonn:20170107224213j:plain

こちらには145人の方が眠っておられます。

修理さんの奥様、お雪さんが自害したとも伝わるこの寺。

名前を刻むことを許されず、ただ「戰死墓」とのみ刻まれた小さな墓碑。

その無念や屈辱は如何ばかりか。

ただただ、手を合わせることしか出来ないこの頃であります。合掌。

 

f:id:aoimonn:20170107224220j:plain

まだ外は明るかったですが、色々と散策したり考えたりしたら疲れたので一旦宿に戻ろうとしたところ。何とフォロワーさんのフミーさんが会津に来られてるということで。

どうやら私がツイートで会津会津五月蠅いので、呼び寄せてしまったみたいです。すみません(笑)。

折角ですからと、鶴ヶ城にて合流後、しばし立ち話に付き合わせてしまいました。

その帰り道に立ち寄りました、小澤蝋燭店さん(地図)。

八重の桜の11月頃だったでしょうか。

OPで会津絵蝋燭が映る時があったのを覚えておられる方もおられるでしょうが、あれがこのお店の作業の様子です。

凄く素敵なお店で、私も迷いに迷って迷って、自分の好きな桔梗の描かれたものを購入しました。

f:id:aoimonn:20170107224336j:plain

夜は、お宿で色んな事(阿弥陀寺のことが主)を頭の中でぐるぐるさせながら、愛してやまない末廣をちびり。

日本酒は不得手なのですが、末廣は本当に美味しいと思える日本酒です。

その土地に来ないと、見えて来ないものがたくさんありますね。

寧ろ、そっちの方が多いな。

そんな風に思いながら、会津24時間を色んな意味で満喫したのでした。